川崎洋「鉛の塀」を読む

言葉は
言葉に生まれてこなければよかった

言葉で思っている
そそり立つ鉛の塀に生まれたかった
と思っている
そして
そのあとで
言葉でない溜息を一つする

 この詩は、その内容が何を表現しているのかについて考えるよりも、その美しさに注目し、なぜ美しいのかを考える方が有意義な作品である。まるで言葉で作られた一つのオブジェのようなこの作品であるが、その美しさにはちゃんと理由がある。その理由について、以下に説明したい。
 この作品が美しく感じられるのは、言葉の配置のバランスが絶妙だからではないかと、私は考える。それは、具体的には、話の展開の落としどころ(つまり「オチ」)が二つ用意されているからだと説明される。そのことについて、詳しく見てみよう。
 まず、作品の内容は、二系列に分けられる。その二系列を、順番に紹介する。
 一つ目の系列は、「言葉は/言葉に生まれてこなければよかった/と/言葉で思っている」と、「言葉でない溜息を一つする」の中に含まれる、「言葉」という語を用いた洒落のような趣向である。
 「言葉は」と、まず言葉というものを擬人化し、その言葉が己の身をかこつところから、話は始まる。しかし、言葉が「言葉に生まれてこなければよかった」と考えるのも、結局は言葉によってなされているのだという皮肉めいた言説が登場する。その次の、「そそり立つ鉛の塀に生まれたかった/と思っている」はここでは省略し、先に進むと、「そして/そのあとで/言葉でない溜息を一つする」と話が帰着する。これが、第一のオチである。つまり、“言葉”という語が何回も登場するのに対し、最後は、“言葉ではない”ものが登場して、話が結ばれるのである。
 二つ目の系列は、先ほど省略した、「そそり立つ鉛の塀に生まれたかった/と思っている」に関する趣向である。ここで、なぜ言葉は「鉛の塀」に生まれたがっているのか、それを問うことは無意味である。それよりも大切なのは、この詩のタイトルが「鉛の塀」であるという事実に注目することだ。そう、第二のオチは、このタイトルなのである。これは、話を完結させる類の「オチ」ではない。しかし、「鉛の塀」についての記述は、「言葉」という語にまつわる洒落の趣向(すなわち第一の系列)から逸脱しているが、タイトルにそれを持ってくることにより、見事に回収されている。そのように、読者に小さな感動を与えるという点で、このタイトルは「オチ」なのである。
 以上により、この作品にはオチが二つあることが、お分かり頂けたと思う。ここからは、なぜオチが二つあると、言葉の配置のバランスが良いことになるのか、それについて説明したい。
 まず、この詩が我々に伝えようとする内容がある。それがつまり作品の「意味」である。しかし、同時にこの作品の中には、「言葉のバランス」というものが存在する。作中では、わざとそのバランスを揺らがせ、それを立て直すことによって、「作者の言語感覚は見事だ」という印象を、我々読者に与えているのである。
 作品の「意味」に注目すると、それが我々に伝達されるためには、作中のどの箇所も削れない。しかし、「言葉のバランス」に注目すると、一見不要に感じられる箇所が、作中には登場する。それはすなわち、「鉛の塀」にまつわる記述である。作中では、一つの言葉遊びのような洒落が展開されていて、それを把握するためには、「鉛の塀」にまつわる箇所は不要である。しかし、タイトルの付け方で、その箇所を回収することによって、「鉛の塀」の記述は無駄ではなくなる。つまり、この詩においては、あえて無駄に見える箇所を設けて、しかしそれをタイトルによってなぞり、無駄ではないようにすることで、言葉のバランスが見事だという印象を与えているのである。
 このように、作品の「意味」とは異なるところで、「言葉のバランス」を立て直す離れ業というものが繰り広げられている。第一のオチは、そのオチに向かって作品の内容を収斂させるため、言い換えれば、一見不要に見える箇所を作るために必要なのであり、つまりは「言葉のバランス」の揺らぎそのものであると言える。この揺らぎは、あえて設けられている。第二のオチは、その揺らぎを立て直す箇所に当たり、まさにこの作品の真骨頂であると言えるだろう。
 以上より、この詩は、その「意味」とは異なるところに、「言葉のバランス」という体系を内包している。そして、その「言葉のバランス」を保とうとする、作者の優れたバランス感覚こそが、この詩の美しさの底にあるものなのである。

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