山崎るり子「春一番」を読む

風が窓を叩く
南の窓に ロックのリズムで
体当たりする
庭の木々は
髪ふりみだして 踊っている
体裁など捨てて
くねっている

窓スクリーンのこちら側は
何一つ動かない
八十八になるおばあさんは
口をうっすら開けたまま
ソファーにもたれて 眠っている

花瓶には 紅い花
瞬きして目を開けたら
落ちているかもしれない花びらも
今はまだ
花のかたちで
そこにある

 この詩は、“春一番”が吹く庭での木々の躍動と、「八十八になるおばあさん」が動かず眠り込む様子とを対比した作品として、まずは読める。だが、ただそう考えるだけでは、第三連の「紅い花」についてはどう解釈すればよいのか、分からなくなる。
 そこで、注目したいのは、「おばあさん」と「紅い花」を描写する語り手の叙述が、通常のそれとは逆になっているという事実である。具体的には、「紅い花」に関して、語り手は「瞬きして目を開けたら/落ちているかもしれない花びらも/今はまだ/花のかたちで/そこにある」と述べている。このように、語り手は「紅い花」のやがて失われる“命”に注目している。しかし、このように命を惜しむという姿勢はむしろ、老婆と相対した時の我々の感情に近いとは言えないだろうか。一方、「おばあさん」は、「何一つ動かない」と語られていて、この人物の方が“静物”であるかのようである。
 その通り、この作品の中では、動く“モノ”と静止する“モノ”の対比がなされ、さらにその二つの無生物である“モノ”と対照をなすものとして、一つの“命”が登場する。動くモノとは「庭の木々」、静止するモノとは「おばあさん」、そして命ある存在とは、「紅い花」である。——そう、この作中では、「おばあさん」は静物として語られているのである。
 ではなぜ、語り手は「おばあさん」を静物として扱うのか。それは、「おばあさん」という語が喚起するイメージに基づいている。あなたは、口を開けて眠り込み、死んだように動かなくなっている老婆を見たことがあるだろうか。仮に見たことがなくても、緩慢な動き、もしくは全く動かない老婆の様子を、想像することはできるだろう。そうした老婆を見て、あなたは、「死んでいるのかな」と一瞬思ってしまうはずだ。この詩の「おばあさん」は、そうした老婆のイメージから生まれた、虚構の静物なのである。
 ただし、「おばあさん」と老婆では、異なる点がある。老婆は、(当たり前だが)無生物ではない。彼女は、紛うことなき人間であり、彼女には彼女の意思がある。確かに、傍にいる人間から見ると、静物、つまりモノに見えてしまう瞬間はある。だが、それは「見える」だけのことであり、人間はどう頑張ってもモノにはなれない。
 だから、この詩の「おばあさん」は、その誰かが傍から見た老婆像なのである。言い換えれば、老婆というものを、他者から見た老婆像と、老婆自身に分割するとする。その内の、「他者から見た老婆像」を取り出してみると、それが「おばあさん」なのである。実際には、老婆の存在を二つに分割することはできない。この詩の「おばあさん」は、だから虚構の存在なのである。
 しかし、この作品は、世間では老婆が静物として見られることがあるというまさにそのことを、新しい「発見」として取り上げている。その意味で、「おばあさん」が登場するこの詩は、単なる虚構に終わらず、現実と繋がっていると言える。

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