山崎るり子「母猫」を読む

見つかってしまった
触られてしまった
人間のにおいが付いてしまった
もう一度お腹にかえして
もう一度やり直しだ
もっと静かないい場所で
秋になったら
また産もう

母猫はムシャムシャと
子猫を食べる
三匹ともすっかり食べて
おくち回りのお手入れもすませ
あくびを一つ
それからやり直しのきく土の上で
目を閉じて
春の陽を浴びる

大丈夫 何度でも
産み直してあげる
草も木も 
雲も風も
みんなそうして
生まれてくるのだから

痩せた野良猫は
揺れる陽の中であやされて
生まれてくる前の夢を見る
母のあたたかなお腹の中に
帰っていく

 この詩を読んでまず目に付くのは、母猫が子猫を食べるというモチーフの強烈さである。猫の習性としてよく知られた母猫の行為ではあるが、我々はそれを残酷だと考えてしまいがちである。しかし、その行為は必ずしも残酷とは言えないのではないかというのが、この詩が最初に掲げる問題提起である。
 ではなぜ、作者はそのように考えるのか。その答えは、実は「痩せた野良猫」が登場する第四連に書かれている。
 しかしまず、第三連までの内容を確認しておこう。作者は、多くの人が残酷であると考える、「母猫が子猫を食べる」という行為を、あえて肯定している。それは、子猫は何度でも「産み直」されることが可能だからであり、その根拠として取りあえず挙げられるのは、「草も木も 雲も風も みんなそうして 生まれてくる」から、というものである。この時点で、作者の主張の背景にある一つの思想に、気づく人もいるかもしれない。しかし、私はまだこの段階では、作者の主張に納得できなかった。今食べられる子猫と、次に産み直される子猫は、別の個体であり、そこには一つの死——食べられる子猫の死——があるはずだと思った。
 だが、そのような読者の批判も、第四連を読めば、くじかれてしまう。この連では、「痩せた野良猫」が登場するが、私はこれを産み直された子猫が大きく成長したものであると解釈した。いずれにせよ、既に母猫と別れて、一匹で生きているかつての子猫である。その野良猫が、「生まれてくる前の夢」を見るのだという。そして、「母のあたたかなお腹の中に帰っていく」。——ここで、作者の主張の裏に潜んでいた一つの思想が、姿を現す。
 つまりこの詩は、母猫のお腹の中という場所を、命あるものが生まれてくる前の世界、言い換えれば一種の混沌として捉えているのである。そのような考え方の下では、生まれることも死ぬことも、大きな意味を持たない。全ては混沌から生まれ、また混沌の中へと帰って行くのであり、全ての命は一つなのだ。「母猫が子猫を食べることは残酷ではない」という主張の背景には、作者のこのような思想があったのである。
 以上のように、この詩の作者は、命というものを、一つの混沌として捉えている。それは一個体の生き死になどが問題にならないくらい、大きなスケールのものなのである。その混沌を内包するさらに広大な場所として、「母のあたたかなお腹の中」は、ある。

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