吉野弘「明るい方へ」を読む

鼠が天井裏を走る
—うるさいな、追い出せるといいが
—殺鼠剤がありますわ
天井板を押し上げ、妻がピンクの錠剤をばらまく
数日たって天井が静かになる
—あいつら、どこで死ぬんだろう?
—明るい所に出てきて死ぬそうよ
あの錠剤食べた鼠は、視野が狭くなって
そのあと、目が見えなくなるって……
—視野が狭く?
—暗がりで死んで腐ったりしないように
鼠を明るみに連れ出す錠剤なんですって

最後の目にちらつく小さな薄明、そこへ
力をふり絞って、にじり寄ってゆくのは
鼠ではない
私だ
ピンクの錠剤と似たようなものを知らずに食べたあとの
私だ
誰かが私をうるさがっていた—きっと

 この詩の中で、語り手は、殺鼠剤を食べた鼠の運命を自分の身に引き取って、「最後の目にちらつく小さな薄明、そこへ 力をふり絞って、にじり寄ってゆくのは 鼠ではない 私だ」と述べている。なぜ彼は、そのように考えるのだろうか。
 この謎を解くポイントは、この語り手というものを作者自身であると見なすことにある。つまり、語り手の「私」は、一人の詩人なのである。そう考えると、「小さな薄明」に「力をふり絞って、にじり寄ってゆく」という描写は、すなわち、苦労の果てに詩的真実を掴もうとする、詩人の姿勢の比喩になっていると言えるだろう。
 では、「ピンクの錠剤と似たようなものを知らずに食べた」という記述、ここで語られていることは一体何の比喩なのだろうか。—私は、その答えは「教育」であると考える。
 人は、子供の頃は、柔軟な発想を持っている。それは世の中の「常識」を知らないということだとも言えるが、まさにそのことによって、大人が思いも寄らない発想を、時に子供はする。しかし、教育によって思考の方法を訓練させられると、子供は画一的な物の見方をするようになる。
 もちろん、教育は、社会を維持していくためには絶対に必要なものであり、必ずしも害悪ばかりをもたらすものではないことを、私は知っている。しかし、詩的な発想をするためには、画一的な思考は邪魔になってしまう。よって、教育というものは、時に芸術とは相容れない存在であるとだけ、ここでは述べておきたい。
 さて、「ピンクの錠剤と似たようなもの」とは、まさにこの「教育」ではないだろうか。語り手は、かつては柔軟な物の見方をすることができていた。しかし、この錠剤のようなものを「食べた」ことによって、その豊かな発想は失われてしまった。今はただ、かすかに見える明かりに、血を吐く思いで迫っていくだけである。つまり、「明るい方へ」、目指していくというのは、真実の方へにじり寄ろうとする、語り手の詩人としての生き様を示しているのである。
 では、「誰かが私をうるさがっていた」の「誰か」とは、一体何だろうか。私は、これについて、人間社会全体であると考えた。「ピンクの錠剤と似たようなもの」の答えは、教育であった。その教育を受けることを作者に強いたのは一体誰だろうか。—それは、社会というものではないだろうか。
 社会にとっては、物の役に立たない思考などは、なるべく排除しておきたいのである。なぜなら、皆が詩的あるいは哲学的なことしか考えないようになったら、社会は崩壊してしまうからである。しかし、だからと言って、私は決して人間社会の存在に異を唱えるわけではない。社会というものが崩壊したら、我々は生きてはいけないからである。
 ともあれ、ここに我々は、一つのテーマ、芸術と社会の対立という問題に辿り着くのである。これは、人間の普遍的なテーマであると言えよう。
 さて、この詩は、そうした大きなテーマを内包しているが、その問題提起の在り方は、あくまでも、詩人として生きる作者の実感に基づいたものである。また、その問題意識は、鼠の駆除という生活の中の些事がきっかけとなって芽生えたものである。したがって、この詩においては、この普遍的なテーマそのものは作品の核とはなっておらず、むしろ、鼠の駆除と自身の生き方の相似に対する、作者の「気づき」が感動の中心となっている。しかし、芸術と社会の対立−、この問題設定に気づくことは、この詩を理解するために最低限必要であると言えよう。

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