辻征夫「象よ」を読む

いま彼女がつかっている
細いきいろい象牙の箸
あれはもしかしたら馬の骨だが
しかし象牙だったら遠いアフリカの
草原を群なして歩いていた
巨大な象のもちものだったのだ
象よ 彼女はいまきみの牙で
雑煮の餅をつっついたぞ
煮豆を三つつまんだぞ
ちっちゃな仔猫をおどかしたぞ
象よ もしかしたら 馬の骨よ!

 この詩に登場する表現を、全て文脈通りに受け取ると、これは「象牙かもしれないし馬の骨かもしれないもの」から作られた箸を讃える話としてしか読めない。しかし、それでは、一体何が面白いのか、いまいちピンと来ない。このように、この詩の表現をそのまま受け取ることは、この詩の真の面白さから遠のくことに繋がってしまう。
 では、どのように読めば良いのか。注目したいのは、「馬の骨」という言葉である。「馬の骨」とは、例えば、「どこの馬の骨とも知れない輩」のように使われ、素性が分からないくらい卑しい、そんな人物に冠する語でもある。もちろん、ここでは、そのような「卑しい人物」という意味ではなくて、文字通り、動物の馬の骨、という意味で用いられている。
 しかし、この詩では、まず、象牙であるかもしれない箸の持つ、いわばロマンとでも言うべき魅力について語られる。そして、その後に、しかしその箸は実は馬の骨である可能性もある、と述べられている。ここで、「馬の骨」は、語り手によって素晴らしい魅力を湛えているとされる象牙と、実は対極を成すものとして提示されているとは考えられないか。つまり、ここでの「馬の骨」は、暗に「卑しい」という意味も含んではいないか。
 そう考えると、作中で、語り手が、象牙の箸の持つロマンについて説得力たっぷりに語った後で、しかしこの箸は実は卑しい「馬の骨」かもしれない、と述べていることになる。ここで、読者は、思わずガックリ来てしまう。と同時に、笑い出さずにはいられないのである。
 さて、この作品は、「馬の骨」という言葉の持つ意味の二重性によって成り立っている。言葉の力によって、おかしみというものを生んでいるのである。言葉の力に頼ることで、初めて成立している作品なので、これは紛れもなく「詩」であると言える。
 余談だが、今まで私は、純粋に言葉遊びだけで形作られている作品(例えば、谷川俊太郎の「かっぱ」など)について、それがなぜ「詩」なのかということが、説明できなかった。しかし、この「象よ」という作品に出会って、この作品が「詩」であるという事実を考えると、純然たる言葉遊びの作品も、やはり紛れもなく「詩」なのだな、と実感することができた。

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