谷川俊太郎「かなしみ」を読む

谷川俊太郎「かなしみ」

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

 この詩の内容について、さっそく見ていこう。
 まず、第一連ではなく第二連に注目する。「透明な過去の駅で 遺失物係の前に立ったら 僕は余計に悲しくなってしまった」とあるため、「透明な過去の駅」の「遺失物係」のところでは、「僕」のおとし物は見つからなかったことが読み取れる。ということは、「僕」の“過去”の時間の中には、彼の“おとし物”は存在していないことになる。
 しかし、第一連で語り手は、「おとし物を 僕はしてきてしまった」と言っているため、彼が何かを落としたのは、紛れもなく過去の時間であるはずだ。この“矛盾”は、一体どう解けば良いのか。
 私は、このように考える。「僕」がおとし物をしたのは、彼の「生まれる前」の時間軸であると。言い換えれば、この世にやって来る前の時間において、彼は“おとし物”をしてしまったのだ。
 そう考えると、「青い空の波の音が聞えるあたり」という謎のような表現にも、解釈を付けることができる。これは、「生まれる前の世界」から「この世界」にやって来る時の通路のようなものを表しているのではないだろうか。
 また、「生まれる前」ならば、「僕」は存在していないのではないか、と考える人もいるかもしれない。しかし、この作品では、人が「生まれる」ということは、別の世界から、この「青い空の波の音が聞えるあたり」という通路を通って、やってくるものだとされているため、この世界に生まれる前にも、「僕」は存在しているのである。
 さて、重要なのはここからである。「僕」は、「とんでもないおとし物」をした、と言っているが、これはどう捉えれば良いだろうか。
 私は、この「おとし物」とは、「生まれる前の世界」において、「僕」にとって大切であった人や物であると、考える。つまり、この作品は、「おとし物」というモチーフを使用することによって、「僕」にとっては、「生まれる前の世界」の方が重要であった、ということを表しているのである。言い換えれば、「生まれる前の世界」での生の方が、本当の生であった、ということになる。
 ここで、話は少し飛躍するが、『竹取物語』のかぐや姫の話を思い出してほしい。月の世界に帰らなければならないかぐや姫は、この世での思い出を抹消するために、家来達に、月の世界の衣服を着せられてしまう。それを身につけると、この世での思い出を全て忘れてしまうのだ。実際、その衣服に袖を通した瞬間、かぐや姫はこの世で大切にしていたものの存在を忘れてしまうのであった。
 このかぐや姫にとって、月での自分の人生と、「この世」での人生、どちらが本当の生であっただろうか。—論理的には、どちらが本当の生などとは決められず、どちらも同等の重みを持っているというべきなのかもしれない。しかし、心情的には、やはり、「この世」での生であろう。本当に輝いていた「この世」での人生を忘れて、心を失くして月で生きていく、というところに、この話の哀れさがあるからだ。
 ここで、谷川俊太郎の詩に戻ると、「僕」の場合は、このかぐや姫の場合とは正反対である。「僕」にとっては、「生まれる前の世界」での人生が、本当の人生であり、「この世」での生は、偽りの生なのである。この詩の「かなしみ」は、そのことのあはれを指した表現なのである。
 そして、「僕」は、すなわち、人間の象徴として登場する。「僕」のそうした境遇は、何も特異なものとして描かれているわけではなくて、万人に当てはまる、普遍的なものとして登場するのだ。つまり、我々の誰もが、もしかしたら、「生まれる前」に既に「本当の人生」を終えているのかもしれない、という指摘が、この詩の意図するところである。
 このように、この詩の醍醐味は、「生まれる前の世界」と「この世界」の重要度を逆転させるところにある。普段、我々は、「この世界」での生を、本当の生と考えている。しかし、実はそうではないのではないか、という作者の問題提起が、作品の底流にある。

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