谷川俊太郎「芝生」を読む

谷川俊太郎「芝生」

そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ

 この詩の語り手である「私」は、自分の来歴について告白しているが、その告白の内容は、まるで「私」の正体が宇宙人であるかのように感じられるものとなっている。では、この詩の「私」とは、宇宙人なのだろうか。そのようにも読めるが、それでは全く面白くない。
 では、面白い読みとは、一体何か。
 茨木のり子は、この詩の「私」を作者の谷川俊太郎と捉えている。「幸せについて語りさえした」という箇所が、詩人の仕事を思わせるからだろう。そして、茨木は、「谷川俊太郎には宇宙人のようなところがある」と指摘している。
 しかし、「私」=作者の谷川、とする読みも、まだ面白いとは言えないと、私は思う。なぜなら、それだと谷川の特異性を指摘するだけの詩になってしまうからだ。では、私が面白いと感じる読みとは、一体何か。それは、「私」=人間を代表する人物、とする読みである。
 人間を代表する人物、というのは、人間xにaを代入したようなイメージの人物のことである。つまり、どの人間も当てはまる、xという人間の型を、aという特定の人間によって代表させる、ということである。だから、作中の、「この芝生」とか、「幸せについて語」った、などのように限定されている箇所は、元のxに還元すれば、途端に限定されなくなる。言い換えれば、aという人物(「私」)は、「この芝生」という場所で物心がつき、詩人という職業(「幸せについて語」る仕事)に就いたが、もしこの作品の別バージョンがあり、xにbを代入したら、bという人物は、例えば“公園”で物心がつき、“教師”という仕事をしているかもしれないのである。
 ちなみに、この詩は「物心がつく」という現象を説明するものであり、物心がついた時点から、この詩の内容は始まっているのだ。
 次に、「なすべきことはすべて 私の細胞が記憶していた」という箇所について、見ていきたい。この部分は、以下のようなことを表している。人間は、物心がついたら、まず、親に従うところから始まり、人間社会の中で生きていくことを他人から教え込まれる。子供は物心がつくと親の言動を模倣するが、世間では、子供は選択の余地がなくそうしていると考えられている。しかし、この詩は、子供が、自分の「細胞の記憶」に従い、そのように人間社会に溶け込む努力をしているのだと主張するのだ。
 さらに、「だから私は人間の形をし」という箇所は、人外の者が人間になることを選択し、実際に人間になったのだ、という主張が裏にある。
 このように、この詩の作者は、赤ん坊が成長して大人になったというのが人間x(それぞれの人間にとっての「自己」)の来歴である、という世間に流布する「仮説」を、全く信じていない。本当は、人外の者が人間の形を取ることを選択している、というのがその実態なのではないか、と主張する作品なのである。ここで、重要なのは、この「私」が人間xの一例として登場しているという点である。これはつまり、全ての「自己」(人間x)が、本当は人間ではないもの(例えば宇宙人)なのではないか、という考えに繋がるのである。
 また、人間xには、この文章を読んでいるあなたも、私も、当てはめられる。あなたは、「自分はれっきとした人間だ。人間のフリをしている人外の者なんかではない」と言うかもしれない。しかし、そう言える根拠はどこにあるのだろうか。あなたが人間社会の中で人間として生きている限り、あなたはxに当てはまる。なぜなら、あなたは、「人間の形」をしているし、また、「幸せについて語」ることはしていないかもしれないが、それに代わる他の人間生活(仕事など)を毎日している。それらの行為が、あなたの細胞の記憶に命令されて行っているものではない、とどうして断言できるのだろうか。
 しかし、注意してほしいのだが、各々の人間にとって、「自己」は人外の存在であるが、「他者」はちゃんとした人間として認識されている。なぜなら、子供を持つ親について想像してみてほしい。親にとっては、子供は、自分から生まれてきた「人間」である。しかし、子供自身にとっては、その、自分は親から生まれたという「物語」が事実なのか確認する術がないため、自分は「人外の者」である。そして、この作品の根底には、世界を、それぞれの人間の「自己」の世界の総和として捉える、という思想がある。
 このように、「自己」が「人外の者」であり、「他者」は人間である、と考えると、「人間」というものは、ヒトという種として固定された存在ではなく、他者との関係の中で生まれる流動的な観念であることが分かる。
 これが、私の、「芝生」という詩に対する意見である。補足しておくと、「私」を、作者の谷川であると考えても良いが、その場合は、谷川という人間aを、人間xという関数に還元し、全ての人間の象徴として捉えることを忘れてはならない。

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