谷川俊太郎「座る」を読む

ソファに座っている
薄曇りの午後
剝き身の蛤みたいに

しなければいけないことがある
だが何もしない
うっとりと

美しいものは美しく
醜いものも
どこか美しく

ただここにいることが
凄くて
私は私じゃなくなる

立ち上がって
水を飲む
水も凄い

 この詩は、語り手の「私」が悟りのようなものを開く瞬間が書かれている作品である。その内容は単純で、ただ自分が「ここにいること」の凄さを実感するという種類の悟りであるが、その考えに辿り着くこと自体は、そう簡単ではない。
 作中で、語り手は、しなければならない用事から逃れて、何もせずにただ「うっとりと」する。これはただぼんやりして気持ちよくなっているだけだが、それをきっかけに彼は無我の境地に入っている。
 次に語り手は、「美しいものは美しく/醜いものも/どこか美しく」感じられるようになる。これは、あまりの気持ちよさに、醜いものすら美しく感じられる、寛大な気持ちになったのである。醜いものを「美しい」と考えた瞬間に、カチリと何かが切り替わる。この瞬間、彼はあらゆるものの存在を肯定する。そして、何かが「存在する」ということの不思議に打たれるのである。
 次に彼は、立ち上がって水を飲んだ。水もまた、ただそこにあることによって賛美されるべきものであると、彼は考える。要するに彼は、あらゆるものの存在を肯定することから、ものが存在するということの不可思議さに気付くのである。
 ところで、この作品のタイトルは「座る」というものである。なぜ語り手はソファに座った時に悟りを開いたのだろうか。それは、座禅のイメージから来ていると、私は考える。座禅を組むことによって無我の境地に辿り着くことのできる人がいるが、この作品の語り手は、何気なくソファに座ることによって、それを達成しているのである。
 以上により、この詩は、存在することの「凄さ」を謳った作品である。また、この作品は、語り手が悟りを開く境地を描くことで、それを我々に追体験させてくれる詩であると言えよう。

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