辻征夫「突然訪れた天使の日の余白に(抄)」を読む


だれもいない(ぼくもいない)世界

(世界中でそこしかいたい場所はないのに
別の場所にいなくてはならない
そんな日ってあるよね)

十歳くらいのときかな
ひとりで留守番をしていた午後
そおっと押入れにはいって
戸を閉めたんだ。
それからすこうし隙間を開けて
のぞいてみた
だれもいない
(ぼくもいない)部屋を!
なぜだかずうっと見ていて
変なはなしだけど
そのままおとなになったような気がするよ。

 この詩は、「突然訪れた天使の日の余白に」という作品から、「だれもいない(ぼくもいない)世界」という副題が付いた部分を抜き出したものである。ここでは、タイトルについては考察せずに、副題以下を一つの作品と見なして、その部分について考えたい。
 さて、この作品は、大人である語り手の「ぼく」が、自分の幼少期の思い出について述懐する、という形式の詩である。その思い出とは、具体的にはどのようなものかというと、「だれもいない」部屋を、押入れの中から覗いてみた、というものだ。「だれもいない」部屋については、「(ぼくもいない)」という情報が補足されている。
 そして、「ぼく」は最後に、このように付け加える。「だれもいない (ぼくもいない)部屋」を、「なぜだかずうっと見ていて 変なはなしだけど そのままおとなになったような気がするよ。」と。この言葉は、何を意味しているのか、まるで謎である。そこで、今回は、この言葉に注目して、この詩全体を読み解きたいと思う。
 末尾の文章の謎を解くために、作品の副題に注目したい。「だれもいない(ぼくもいない)世界」とある。ここで、副題が「だれもいない(ぼくもいない)部屋」ではなくて、「世界」となっていることに注意するべきだ。そう、「だれもいない(ぼくもいない)部屋」とは、単なる一つの部屋を表しているのではなくて、実は我々の住む現実世界の比喩なのである。つまり、「ぼく」は、大人になる過程のどこかで、この世界には、本当は他者も自己も存在しないのだという考えを抱くようになったのではないだろうか。
 しかし、この「世界」に、他者もいないし、自己もない、というのは、一体どういう意味だろうか。これが、二つ目の謎である。この謎についての私の考えを、以下に記す。
 今、私は、「他者もいないし、自己もない」と述べたが、それは正確に言うと、「部屋」の中にはいない、という意味だ。押入れには、ちゃんと、その部屋を覗いている「ぼく」がいる。つまり、ここでは、「ぼく」という存在が二つに分けて考えられているのだ。押入れにいる「ぼく」と、部屋にいない「ぼく」、の二つである。その他、問題になっているのは、部屋にいない「他者」、である。この三つが、この詩の中で重要な要素とされている。
 さて、「部屋」と「押入れ」は、この「世界」の喩えとして登場するのだった。では、 “押入れにいる「ぼく」”、“部屋にいない「ぼく」”、 “部屋にいない他者”の三要素は、一体、「世界」のにまつわる“何”を表現しているのだろうか。
 その答えは、それぞれ、「認識する主体としての自己」、「認識される客体としての自己」、そして「他者」である。これら三つの内、「認識する主体としての自己」は実在するが、「認識される客体としての自己」と「他者」は実在しない。
 まず、「他者」について見ていこう。「他者」はなぜ存在しないのか。それは、人間が「他者」を認識できるのは、自分の五感によってのみであるからだ。目で相手を見て、耳で相手の発する音を聴く、または手で相手に触る−、このように、五感を使って入手する情報からしか、我々は「他者」が存在していることを実証できない。しかし、仮にその五感というものが、我々を欺いていたとしたら? 例えば、目に見えている物は、本当は実在しない物かもしれない。耳で聴いている音も、本当は鳴っていないのかもしれない……、こう考えると、「他者」の存在を、我々は決して実証できない。そのため、「他者」とは一つのフィクションであると言えるだろう。作品では、「だれもいない」という表現で、このような「他者」の不在について触れられている。
 同じように、「自己」も、本当に存在しているとは言えない。ただし、ここで扱う「自己」とは、「認識される客体としての自己」である。それは一体何を意味しているのかというと、「他者」と同じ存在として考えられている「自己」である。すなわち、大勢いる人間の中の一人としての「自己」である。これは、「他者」を認識するのと同じように、五感によって認識される。つまり、ここに“自分”がいる、という感覚も、“他人”の場合と同じように、もしかしたらフィクションであるかもしれないのだ。これは、詩の中では、「(ぼくもいない)部屋」という言葉で表現されている。
 一方、もう一つの「自己」である、「認識する主体としての自己」は存在している。それは、言い換えれば、先ほど登場したフィクションである(かもしれない)感覚の数々を認識する「自己」である。つまり、もし五感が知覚させているものが幻であるかもしれなくても、その幻を自分が知覚している、という事実は厳然として存在するわけである。その知覚する主体、それが、「認識する主体としての自己」なのである。作中では、押入から覗く「ぼく」の存在が、それに当たる。
 つまり、この語り手の考えは、デカルトの言葉である「我思う、故に我在り」をどこか彷彿とさせる思想なのである。そのような思想を、作者は、押入れから覗いた部屋、というモチーフを使ってうまく表現している。ここには喩えの妙があると言えるだろう。
 さらに、作者は、作品にほんの少しのユーモアを振りかけることも忘れない。作品の冒頭には、括弧書きで、「世界中でそこしかいたい場所はないのに 別の場所にいなくてはならない そんな日ってあるよね」とある。これは、“押入れから覗いた部屋”というモチーフを、連想させはするが、直接には関係がない、そんな文言であり、エピグラフのような役割を担っていると言えるだろう。この文章は、人々が共感しやすい愚痴を綴っていて、作品に笑いの要素を加える効果を挙げている。
 以上より、この詩は、そのテーマとして、極めて哲学的な問題を扱った作品であるが、語り口は至ってユーモラスであると言える。

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