小池昌代「Under the Tree」を読む

そこではいつも対訳のように
静かに雨は降り始めた

未婚のたましいがゆれている
多年草の草地には
いつか
美しく呼び捨てにされた
一本の木がたっている

(すこし、ふとりましたよ)

すずしい話し声も聞こえて
それは なつかしい
ひとの木、と呼ばれた

(あ、まみむめも あなたをすき)

しかられた子供がやってくる
年子の姉妹もやってくる

Under the Tree
木の下で

 私はこの詩を、以下のように解釈した。

 大勢の子供の魂が眠る草地があった。その草地はいつしか、人がそこにいるとそれに応えるように雨が降るという噂が立った。その噂はだんだん大きくなり、その場所に立っている一本の木(「なつかしい/ひとの木」と呼ばれる)に話し掛けると、死んだ子供がそれに答えるというところまで発展した。答えてくれた子供の霊の中には、昔自分が叱ってしまった子も、また年子の姉妹もいた。しかし、実際は、その木は死者の声を伝える木などではなかった。呼びかける人が、死者を思うあまりに、その声が聴こえると錯覚してしまっただけなのである。その幻聴はだから、本当の会話ではなく、まるで呼びかける生者の言葉を違う言語に訳しているかのようであった。

 これが私の解釈である。次に、なぜこのように読めるのか説明する。
 「(すこし、ふとりましたよ)」という会話文と対になって、「(あ、まみむめも/あなたをすき)」という会話がある。この後者の言葉はまるで機械のバグのように、意味を成さない。だからこれは、「すこし、ふとりましたよ」を何らかの文法(架空の文法)にしたがって「訳した」結果であると言える。ここで重要なのは、「なつかしい/ひとの木」が仮に機能しているとして、それは発話の機能ではなくてただの翻訳の機能でしかない、ということだ。このことは、この木が生者の声を跳ね返しているにすぎないことを表している。そこから、この木は実は魔法の木でも何でもなくて、ただ生者の死者に対する想いの強さが、その人物に幻を聴かせているのだということが分かる。
 ここまで見てきたように、この詩は、死者の声とは生者の想いが生み出した一つの幻聴であるという事実を扱った作品である。しかし、作者はその事実をむしろ、生者が死者に呼びかける声を、死者が跳ね返しているのだと見ている。つまり、死者を生者の鏡のような存在と考えているのだ(作者は生者—死者間のその反射を、「対訳」と表現している)。このように、作者は、死者を虚構の存在としながらも、それが機能するところについて思いを巡らせているのである。

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