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家族ってなんだろ~

どうもこんばんは。今日も一日お疲れ様でした。
まだ何かしてるぞっていう方、お疲れ様進行形です!頑張ってて超エライ!スゴイ!
今日はこんなタイトルで今思ってることをツラツラ書いてみようと思います。

突然ですが、皆さんの中で「家族」って「他人」ですか?

※今回は血のつながりがある人間を「家族」と表記してます。

これは私が昔から感じてる感覚なんですが、たとえ血を分けた親族であっても、自分以外は全員「他人」っていう感覚がすごく強いのです。これを人に言ったら「自分はそうは思えない」「わかる」みたいに結構パカっと別れたので、面白いな~と思ってこれを書こうと思いつきました。

自己理解プログラムを通して自分ってなんだろ~というのを見つめ直して、家族についても色々考える機会が多く、改めてやっぱり自分の中で家族って「身近な他人」だな。というところに落ち着きました。
他人って言葉がなんか冷たく感じる~!と言われたこともありますが、他人は他人だからなぁ…という感覚です。「家族だから○○しなきゃ」みたいな感覚もあんまり強くないです。

ただ、家族のことは大好きだし愛していると思えるので、困ってたり大変そうだったりしたら自分にできる形でどうにかしたいなとは思っております。でもそれは家族だから。とかじゃなくて、この人だから、という感覚。
そんな感覚なので、自分の中では「ホントに腹立たしくどうしようもない一面があるが、それでもなんか愛くるしいと想い合える人間同士」なら、「家族」と定義しとるのです。

家族をググると
かぞく
【家族】
同じ家に住み生活を共にする、配偶者および血縁の人々。
 「―構成」

ほぉん。血縁の人々か…
なんでか知らんけど、この「血縁」に対するこだわりみたいなものが昔からあんまり持てないのです。
自分の中でそう思うようになったきっかけの一つがあるとしたら、祖母の死かなと考えてます。

我が家は超平々凡々な一般家庭で、父・母・私・妹・祖父・祖母・犬
で暮らしておりました。祖父が一番に他界し、その数年後に祖母が他界しました。父の実家で暮らしてたので、いわゆる核家族ではありませんでした。

私の地元ではなんとな~しの暗黙ルール的なヤツで
・結婚して子どもを産んで家を建てる
・親に孫の顔を見せる
みたいなのが「王道幸せルート」みたいに扱われてました。私はそのルートからことごとく外れていたのですが、そんな私に「結婚せぇ」「孫見せぇ」とせっついてこなかった両親には感謝しかありません。

閑話休題。
まぁそんな感じで、家族そろってのほほんと暮らしていたわけです。
そのころの祖母は加齢による体の不調や病気もあり、たまに夜に発作が起きて救急車で運ばれて数日入院、ということが増えていました。
そんなある日、祖母がリビングで倒れていました。父が発見した時には、すでに息がありませんでした。その時間、私は仕事で家にいなかったので、訃報をスマホの通知で知りました。

その時に思ったのが、
「人間って死ぬとき一人じゃん」
でした。

祖母は夫がいて、子どもがいて、孫もいて、家族で一緒に暮らしていたけど、最期は一人で迎えていた。
配偶者、子ども、孫たちエトセトラ…に囲まれて大往生。が理想の最期みたいな風潮のあった地元で、それが叶えられる立場だったにも関わらず、一人旅立っていった祖母を見て、結局人は一人で産まれてきて、一人で死ぬ。それはもうどうしようもない。血縁者だろうと、最期に寄り添えるとは限らないんだ。
そんなことを体感的に感じました。

なので、家族といえど決して介入し合えないただの個人と個人で、「家族なんだから」を免罪符にするのは何か違うんじゃないかな~と、自分の中で思うようになったのです。
自分的にはそう考える方が両親や兄弟との関係がより円滑になったように感じています。まぁここは本当に人それぞれ・家庭それぞれだと思うので、あくまで私のケースサンプル1/1 という感じですが。

何が言いたかったのかというと、私の中で家族とは
・血縁関係の有無はあまり重要じゃないと思ってる
・家族といえど他人と他人
なので、家族なのに○○ 家族だから○○ みたいなこと悩んだり苦しんだりしている方がいたら、しょせん他人同士なんだからしょうがない。といい意味で割り切ってフラットな気持ちで付き合うようにすると、案外楽チンになるかもしれません。
ということが言いたかったのです。

でもそういう、本来分かり合えない他人同士が奇跡的に想いを通じ合わせたり、相手に歩み寄ろうとする相互努力みたいなものを積み重ねたりすることが尊くて素晴らしくて、心を豊かにしてくれるんじゃないかな~~~~
と思っております。

人間関係って面倒なこともあるけど、素晴らしいこともいっぱいありますよね。(ポジティブ)

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