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大江健三郎『個人的な体験』甲南読書会vol.16




読書会概要

甲南読書会vol.16
課題図書:大江健三郎『個人的な体験』
開催日時:2024年4月25日(木)18:00~
開催場所:甲南大学iCommons 3F P1
参加者:11名(甲南大学院生2名、甲南大学学部生3名、他大学院生2名、その他学外4名)


甲南読書会vol.16『個人的な体験』チラシ

あらすじ

わが子が頭部に異常をそなえて生まれてきたと知らされて、アフリカへの冒険旅行を夢見ていたバードは、深甚な恐怖感に囚われた。嬰児の死を願って火見子と性の逸楽に耽ける背徳と絶望の日々……。狂気の淵に瀕した現代人に、再生の希望はあるのか? 暗澹たる地獄廻りの果てに自らの運命を引き受けるに至った青年の魂の遍歴を描破し、大江文学の新展開を告知した記念碑的長編。
(新潮文庫の裏表紙からの引用)

読書会の記録

 記載のページ数は新潮文庫(新潮社)を参照しています。

なぜ鳥はアフリカに行きたかったのか?

 主人公であるバードは、家庭を捨ててアフリカへ旅立ちたいという願望を持っています。今回の読書会でまず話題になったのは、「なぜアフリカなのか?」ということでした。

・ニューヨークやパリといった都市ではなく、どこか世俗から離れたようなアフリカが鳥にとってはユートピアとして映っていたのではないか。
・戦中画では、砂漠というモチーフが抑圧された人が逃げだしたいユートピアとしてよく描かれる。都会的な風景と真逆なアフリカは、鳥が逃げ込む場所として理想的だったのではないか。

ラストの場面について

 鳥が急に考え方を変え、息子を育てようと決心するラストの描写には批判の声があります。例えば、作家の三島由紀夫はこの唐突なハッピーエンドを痛烈に批判しました。読書会の参加者の中でも、「ダメでしょ!」とバッサリ切り捨てる人がいたりと、賛否両論の声があがりました。

賛成派の意見

・鳥が赤ん坊の瞳をのぞいているシーンが重要だと思った。赤ん坊の瞳には鳥の姿が映っていない。結局、鳥はまだ自分自身の姿が見えておらず、不完全さが残っている。
・最後に「忍耐」という言葉が出てくる。今後も鳥は父親としての責任を取り続けなければならないわけで、完全なハッピーエンドとはいえない。
・鳥は病院などで、くりかえし「自分が父親です」という言葉を使っている。また、なんだかんだ子どものことを気遣ってる箇所が見られた。急展開であるが、いろんな積み重なりがあってのこのラストなのではないか。

否定派の意見

・ラストがあまりにも唐突するぎる。まるで、アニメ版エヴァンゲリオンの最終回みたい。
・唐突すぎて夢だと思った。
・大江健三郎の私生活で生まれてきた子供を肯定するために、このようなエンドにせざるを得なかった。だけど、物語の中で鳥は子どもを救わずにアフリカへ行くべきだった。
・安楽死させようとする子どもを鳥が気遣う場面が何か所か見られたが、それは結末を見据えての話。「赤ん坊のことを想う父親」という場面を小出しにすることで、ラストの違和感を抑えようとしたのではないか。
・「君には鳥というあだ名はもう似合わない」というセリフが少年漫画みたいでクサい。←それが良いという意見もあった。

文体の独特さ

 読書会の参加者中には、大江健三郎の文章を読みにくいと感じる人もいました。『個人的な体験』は比較的読みやすいとされていますが、やはり大江健三郎の文章には少し特徴があるようです。

・「あなたはいま、まさに袋小路にいるのよ、鳥」(p218)や「しっかりしてよ、鳥」(p215)といったように、文末が「鳥」になっている文章が多かった。周りの人間が問いかけているみたいに、主人公の名前を文章の最後に持ってくるところが印象的だった。
・「~しており、~」となるところを、「~してい、~」という箇所があった。これは、特に『死者の奢り』に多くみられた。なんで「~おり」としないのかと疑問に思った。
・翻訳小説っぽい文章だなと思った。大江健三郎はフランス文学の影響を受けているため、少し文の構造がフランス語っぽいのではないか。

 参加者の好きなだった場面

・予備校で二日酔いの鳥が吐く場面。嫌だけど情景が頭のなかに浮かびすぎてよかった。
・赤ん坊を濡らさないように鳥が気遣っている場面。これから、赤ん坊を安楽死させようとしていたのに鳥のやさしさがうかがえる。
・「建物のなかの夜のなごりの優しさに甘やかされていた鳥の瞳孔に、濡れた舗道面や茂りにしげった街路樹から照りかえす朝の光が霜柱みたいに硬く白っぽくおそいかかる」(p44)← 縮んでいた瞳孔が、明るいところにきてふわっと広がる描写が美しい。
・「鳥は今日の一日の心理的貸借対照表にプラスの数字をもうひとつだけ書き込んだ気分で玄関へひきかえした」(p76)← このような表現はなかなかないと思った。これから良いことがあったら貸借対照表にプラス1を入れたい。

 性の描かれ方

  大江健三郎は初期作品から性描写が多く登場します。『個人的な体験』でも、鳥は女友達である火見子の家に入り浸り、彼女と性行為にふけります。

・『セブンティーン』や『飼育』では、自分の誇りやプライドが性と結び付けられている。身体の性的な機能の良し悪しが自尊心のパラメータになっていると考えられる。『個人的な体験』でも、本当の妻とは性生活がうまくいっていなかったことが描かれており、家族とも社会ともつながれない疎外感から物語がスタートしている。そこで登場するのが「性のエキスパート・火見子」。鳥の自尊心を回復させる役割を担っている。だからこそ、鳥は火見子に依存してしまう。
・序盤のパンチングマシーンの場面でも、鳥は20代にもかかわらず、40代のパンチ力と判定されてしまう。ここでは男性としての鳥の弱さが描かれている。性的な快活さも鳥にとって男性性を象徴するものだと考えられ、それがうまくいくことによって心の安定が得られるのではないか。
・性に注目することで男性として、父親としての鳥の未熟さをうかがい知ることができる。

鳥の救済者としての火見子・デルチェフ・菊比古

 物語の中で登場人物に名前が与えられているかどうかは重要です。『個人的な体験』では、火見子、デルチェフ、菊比古の三人が名前を持つ者として登場します。そして、この3人の役割は鳥を救済する存在であると考えられます。

・火見子:性のエキスパートとして、鳥の男性性を回復させる。
・デルチェフ:カフカの言葉を引用し、子を持つ父親としての倫理を鳥に与える。
・菊比古:自分の人生を自分で選び取った菊比古によって、鳥は責任をもって赤ん坊を育てることを決心する。

 子どもと鳥との関係

・子どもに名前をつけるということが、最後の結末を迎えるにあたって決定的だった。名前をつけることによって子どもと向き合わざるを得ない。
・例えばキリスト教では洗礼という儀式や他者の面前で母親に抱かれることによって人間として社会に承認される。名前をつけるということも、この世界の中の人間として承認するためひとつのかかわりだと言える。鳥は頑なに子どもに名前をつけることを拒んでいたが、名づけることは子どもを受け入れるためのプロセスのひとつだったと考えられる。
・名前をつけるシーンのあとに、赤ん坊は叫び声のような泣き声をあげる。モノのような描かれ方をしていた赤ん坊が、ここではじめて主体性を持った一人の他者として描かれる。
・鳥は赤ん坊を救済することを選ぶが、鳥も赤ん坊によって救済されている。火見子、デルチェフ、菊比古に次ぐ最後の救済者としての赤ん坊。

 物語の対照性について

 物語の序盤と終盤で、対照的な構造が見られます。そしてそれが伏線のような機能を果たしているとも考えられます。

・序盤で出会ったゲイの男にはついていかなかった。終盤ではゲイである菊比古のお店に行く。
・序盤で鳥は目をつけられた不良と喧嘩をした。終盤で同じ不良とすれ違うが、その時の鳥は、成長した姿の鳥であるため不良に気づかれなかった。
・火見子はウィリアムブレークの言葉を引用し、「赤ん坊はゆりかごの中で殺したほうがいい。まだ動き始めていない欲望を育て上げてしまうまえに」と鳥に言うが、その後、デルチェフはカフカを引用し、「子供に対して親ができることは、やってくる赤ん坊を迎えてやることだけです」と言う。

 サルトルの影響

 サルトルは20世紀のフランスの哲学者です。第二次世界大戦後の社会に実存主義という思想を掲げ、世界に多大な影響を及ぼしました。日本においてもその人気は絶大でした。大江健三郎もサルトルからの影響を受けているといわれています。ちなみに東京大学仏文科出身の大江健三郎は卒業論文をサルトルで書いています。『個人的な体験』では、終盤に「フランスの実存主義者」という言葉が出てきますが、これはサルトルのことを指していると考えて間違いないでしょう。

・この小説は鳥が吐く場面が多いけど、これはサルトルの『嘔吐』を意識しているのではないか。
・時代背景などを考慮しても、この小説はサルトルへの応答であるとしか読めない。
・サルトルの「自己欺瞞」に対する応答として読めるのではないのか? サルトルは知的な人間は自己欺瞞を避けることができないと言う。しかし、このサルトルの議論では知的ではない人間のことを考慮されていない。『個人的な体験』で描かれる赤ん坊は知的ではない可能性があるため、自己欺瞞を回避する可能性を保持した存在だといえる。

戦争の影響

 大江健三郎は1935年生まれで、子ども時代に戦争を体験し、10歳の時に終戦を迎えています。もしかすると、戦争時代の日本の価値観で作られた教科書を墨で塗りつぶすという体験もしているかもしれません。大江健三郎は戦後の作家として、『ヒロシマノート』や『オキナワノート』などの著作で核兵器に対する批判や戦後日本の民主主義の在り方を問うています。『個人的な体験』でも戦争に関連する描写が出てきます。

・「おれが戦争に行ったことのある人間なら、自分が勇敢なタイプかそうでないか、はっきりした答をもっているんだが、というようなことを鳥はたびたび考えてきたものだった」(p189)→ 1960年代には戦争に行った世代と行かなかった世代の断絶があり、まさに鳥はその中間に位置している世代。
・核に関するニュースが何度か流れる。

 登場人物の見た目の描き方

 『個人的な体験』では登場人物の見た目が細かく描かれており、今回の読書会ではそこにも注目が行きました。中でも話題に上がったのは、男性と女性の描かれ方の違いでした。

・男性は小柄に描かれがちだった。← アメリカ兵との比較で敗北者としての日本人が表象されているのでは?
・男性に対して女性の登場人物は大きく描かれていた。(大柄な女プロデューサー、火見子は肩幅が広い)
・鳥の男性としてのなさけなさを表現するのであれば、なぜ周りの男性も小さく描いたのか疑問に思った。


次回読書会

 次回読書会はカフカの『審判』です。6月の中頃までに議事録をアップするのでお楽しみに。


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