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心の断捨離、自分軸で生きる
前回、やりたくないことばかり、という話をしましたが、断捨離の時期なのだと思います。
他人軸と自分軸
嫌われたくないとか、期待に応えたいという生き方をしてきた他人軸の私が、その生き方を断捨離して、自分軸で生きたいと思っているのです。
使役されているような感覚、利用されているような感覚。都合のいい人になってる感覚。これが最近違和感になってきたのです。
これまでの私はまるで傀儡のよう
前までは、いい子だね、純粋だね、面倒見がいいね、責任感あるね、って言われてきました。できるだけその声に応えていました。こういうこと、やってみたら、とか、こういうことやってよ、といわれれば、必ずイエス。ノーとは言いませんでした。ノーと言うかわりに、体調を崩したり、ひどく落ち込んだり、身体の方に症状が出ました。
最近では、ストレス病と呼ばれる一つの病気にかかり、大変な思いをしました。過去にも何度もそういったことがありました。ストレスのない生活や、ストレスのない考え方を身につけなくてはそろそろやばいぞ、と思い始めたのです。
頑張って世間の理想を演じてきた私
ある、自己診断のイベントに行ったことがあるのですが、私は自分のことを社交性があると思ってきました。しかし、私は社交性がないと出た時、私はおかしいとその講師に言いました。社交性があることは良いことだと信じて頑張っていたからです。
しかし、今思うと、それは単に社交性があるように演じていたので、実際は社交性を身につけてはきたものの、そもそも社交したい欲求は薄いことに最近気づきました。
社交性が低くたっていいじゃん
一人で食事も好きですが、誰かとの食事も好きです。でも、本当にたまにでいいし、本当に気の合う、話の合う人じゃ無いと、嫌なんです。だから、誰でも仲良くなれる社交性があるわけじゃ無いことに気がつきました。好きな人、苦手な人はいるわけで、相手が悪いんじゃなくて、私の好みなんですよね。人間嫌いというか、人間関係において、私は好き嫌いが激しいんだと思います。そして、自分は自分でやるから、っていうどこか境界を引いています。ここからは私のエリアだから、土足で入り込まないで、っていう。土足で入る人間関係が悪いわけじゃ無いと思う。家に人を呼んでパーティーするのが好きな人もいるし、嫌いな人もいる。私は家に人を呼びたく無い人です。相当気に入った人や、相当心の許せる人しか呼びたく無いのです。とやかく言われなくないというのが本音です。ある意味、「夜と霧」で、相手と自分には期待すると言っていましたが、私は相手にも期待しません。変わるか、変わらないかはそれぞれ本人次第だからです。
全ての発言は「命令」じゃない
相手を変えようとする期待ではなく、単純に、「私はこれが嫌、これが好き」は、行っていいのだと思います。それすら我慢して、相手の好き嫌い、要望に合わせるから、私はストレスを溜めてしまうんだと思います。そして、言われた時も、相手の発言を「命令」のように受け取ってしまうから、ストレスが貯まるのだと思います。選択権は私にあるのです。自分が選ぶことに、罪悪感を抱かなくてもいいんです。頑張れ、自分。
怒られる勇気を持つことが自由への第一歩
嫌われる勇気、Think clearly、エッセンシャル思考、頑張らない働き方、という本にあるように、NOという勇気、怒られる勇気、炎上する勇気が私には、必要かもしれません。NOと言えたら、怒られたら、炎上したら、叩かれたら、やったー!って、自分を褒め称えようと思います。
それでは、また次回。おやすみなさい。
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