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素直なナナメ 24/02/16

本を読むためにコメダ珈琲に行くことにした。

コーヒーチケットを買ってから、まだ一度も使っていない。
11時半に起きてすこぶるダラダラしながら支度し、13時に家を出た。

ぬるく感じていた外の気温は元に戻ったようで風が冷たい。
「冬、飽きたな~」と思った。生きていて、暇を感じつつわざわざ外に出ている時期というのがなかったから、季節を感じすぎている。

正確には暇ではダメだと感じることもあるけど、今のところは楽しくてなんぼだ。読書なら許されるだろうという、ありがちな甘えを連れていく。

外に出るたび変わらない寒さにうんざりする。でも誰にも縛られていない状態で、外出も好きになれたのは今までを振り返ると結構な変化だ。
僕が嫌いなのは、何かに縛られていることであって外出そのものじゃない。外のほうが何かに縛られる状況が多いって、ただそれだけだった。

星野源はエッセイの中で「忙しさと季節との関係は太陽と月のようなもの」と書いていた。確かに忙しくないほど、襲い掛かってくるみたいに季節が隣に居続ける。なるほど、これか。


「忙しくて季節を感じられなくなった」と語る同じ題の中で、散歩に出た星野源はこう続ける。
「体の不調もない、イライラもしてない、胸の窓が開き、季節が通り過ぎる風通しのいい心持ちである。」→(中略)→「こういう時に恋が生まれるのだなと思った。」と。
「恋」の有名な歌い出しの歌詞が生まれた日の話らしい。なんか故事の書き方になっちゃった。これが「矛盾」の語源です、みたいになっちゃった。

なんか、僕は基本的にその状態ではないのかもな、と思った。
ずっと何かしらは不調だ。インターネットによる健康被害の典型例みたいな人間で、恋をするのが難しく感じる。「ヲタクに恋は難しい」のって、ヲタクが健康じゃないからかもしれない。

恋の歌も「全く馴染みがないから」という理由で聴いていない。
自分でもかなり勿体ないと思う音楽の取りこぼし方だ。恋の要素が強いだけで、聴いてはみるものの一度きりで遠ざかっていく。

「シャングリラ」が好きなチャットモンチーも人気順に再生してほとんど全部聴いたけど、共感しながらの楽しみ方は欠けていた。「ん~♡歌詞に共感♡」は基本的にない。するなら「わかる……(噛み締め)」である。全員そうではあるか。恋愛の情緒ナメちゃダメか。

「Official髭男dismの曲はノーダウトしか繰り返し聴けない」って話を似た感性の人と話したことがある。その人も「恋愛の部分が邪魔」と似たような意見だった。

それでも星野源のWeek Endって曲はなぜか好きだ。

この曲、星野源の美学全部載せみたいな感じがする。

美学なんて大それた書き方しなくてもいいんだけど、「楽しも~ぜ~!」「季節ってよくね!?」って気持ちにさせてくれる。
仕事をしていても、2連休が控えていればたとえ水曜だろうが月曜だろうがこの曲を帰りに聴いた。不定休ってそんなもんだし。

音色の心地よさ、流れる風みたいな気持ち良さ。週末、休暇、昼・夕・夜更け。自分の肌から半径50cmが、その音楽に染まる感覚。
流れる季節の真ん中で、ふと日の長さを感じます。
そういや3月9日がもうすぐだ。

別に歌詞への共感だけが音楽だけじゃないし、メロディーしか聴かなくたって自由だ。それでもうざったい時はうざったい。作品鑑賞こそ強いられるべきじゃなく、自分の童心に従うべきだ。たぶん。

自分のオススメする曲が他人にハマらないことは結構頻繁にあるのだけど、恋の成分が全然ない曲が多い。もっと抽象的な「猫」とも「希望」とも取れるような歌詞ならいける。たとえばこういう。

そもそもそういう解決方法が巷でささやかれている。

邪魔に感じない範囲ならそういう歌詞が入っていても違和感がなく、WeekEndはそういう曲でもある。
歌詞単体で見た時は生々しい気がするんだけど、音作りがどうあがいても極限まで綺麗だからこそ、いやらしさに気づけない。

特に貼ったライブ映像は凄くて、モミモミ仕草が完全にやらしい。やらしいのがわかったうえで、最高にオシャレだ。
洋服における「ドレスとカジュアルのバランス」みたいなものが音楽やライブの表現にもあるとしたら、この動画の調和はすさまじい。

同じような理由で、さっき挙げた人の新曲が良かった。


まって!!日記として書けてない!!!

コメダ珈琲に着いた。
読書をしようとしたもののお客さんは意外と多いし、極端にお腹が空いている。

みそカツパン(デカい)を食べてソフトクリーム(デカい)を食べたら、それ以上その場に居たくなくなって退店した。
コーヒーは2杯飲んだ。お食事処じゃない憩いの場としての外食が未だに慣れない。

一度測ってみようと思って入店時につけたストップウォッチは、1時間20分が経過していた。なんだかんだ長く居たはずなんだけど、心地よすぎてそこまで長居した感覚がない。ずっといる人って1日中ここにいるんだろうな、なんて来るたびに思う。慣れの問題だろうか。

公園で「言語の本質」の続きを読もうと思ったが、あまりにも寒い。
何かを飲み食いできる胃の量じゃないし、寒さはしのぎたい。
暖かい場所で座って合法的に本を読めたら満足なのに。

ここでいう合法的は、他人の目をくよくよ主観で気にする必要がない健全な場所のことを言う。公園は合法的に外でぼーっとできるから素晴らしい。
ショッピングモールの休憩イスなんかは僕の中では非合法だ。気になるから。

若林さんが「ナナメの殺し方」でナナメ(斜に構える姿勢)をほぼ殺しているとしたら、僕はナナメを殺しきれてない。
昨日「既に通った道」と書いたのは、素通りのことかもしれない。
可哀想だからたまにエサをあげているが、ナナメは狂犬である。
まだ恐らく気づかぬうちに他人のことを内心バカにしているし、自分のこともバカにしている。

若林さんでも完全には殺しきれない感覚だろうから、別にそれでもいいか。「ナナメを殺す」はキャッチーだけど、根っからのそれと向き合うには「ナナメを小さくする」くらいが肌感覚として妥当だ。


時刻は17時。寒空の下、公民館という選択肢を閃いた。
あれこそ憩いのためにしかない場所だ。
半信半疑のまま、成人になって初めて単独で公民館に突撃することにした。

周りにそんなやつ一人もいないし、もはや話を聞いたこともない。
「外出して読書」なんて一人で目立たないようにするし、当然と言えば当然だ。
GoogleとTwitterで検索して、合法的な外読書の場所を調べることも数回してみた。斜に構えているヤツしかしない行動が染み付いている。ネットってナナメ製造所だ。「こんな人間はイヤだ」に雁字搦めにされて動けなくなる。

自宅で読書するのがあまりも下手なのに、集中して本は読みたい、できれば雰囲気に浸りたい、他人の目を気にしたくない、暖かい場所にいたい、座りたい。
めちゃめちゃワガママだ。お金は出せと言われれば納得できる分は出すからさ。頼むよ~!

公民館のガラス戸を開け、たじろぎ、頃合いを見て声をかける。
「いいんだけど、今からここしまっちゃうんだよね~」と白髪の館長らしき人に答えられた。Sorry……!

よくよく考えなくても人の配置が必要な公民館というシステム、営業時間は9時~17時らしい。
こっそり盗み聞くと従業員の休みの話をしていて、思った以上に公共施設だった。子供の頃は気さくな地域コミュニティとしか思わなかったのに。

単独で入って子供の声を気にしないぶんには申し込みも不要、平日にふらっと入って憩いのスペースで読書するくらいは全く構わない。そんな返答だった。
いや知らないこと知ったな、公民館って使わないもん。あまりにも他人から公民館の話を聞かな過ぎて「公民館って全国区のワードだよね……?」って疑心暗鬼でWikipedia使って検索したもん。


そうだ、コインランドリー行こう。
洗濯物ひとつもないけど。
調べながら、noteにもTwitterにもそこそこコインランドリー読書の投稿があることに気づいた。

この時点でこんなに日記の文量が膨れ上がるとは思っていなかったから、「やりに行った」自分を少し後悔している。が、面白かった。

お恥ずかしながらコインランドリーを使ったことがない。
実家住まい、22歳男性、高卒正社員のち無職。
ここ3か月間、やってることがほぼ貴族だ。
仕事をやめてから5か月が経とうとしているのに、日記を見返すたびになんか楽しそうですね、と他人事で言葉を吐きたくなる。これは斜に構えている別の自分だ。

何事も経験。行くだけ行ってみよう。誰も見てなんざいないさ。



ここがコインランドリーかぁ~入ってみよ、ウィン。

スニーカーのせんたっきあった!!!
でもたぶんこれ履いてる靴をそのまま入れるヤツじゃない!!!

店内は完全に無人だ。一回座ってTwitterを開いたのち、検索し変であることを確認したのち、スニーカーを脱ぐ。

「コインランドリー来たら靴下姿でスニーカーの洗濯を待っている人がいた」と1件だけ5個ほどのいいねを集めるツイートがあった。
同じ現象に遭遇した時、わざわざ呟きたくなることではあるらしい。

文面は嘲笑でもなくただ事実を述べただけだが、「なんか……(笑)」の事象であることは間違いない。ただ似たことをして帰っている人もいる。
テンションは僕と同じ「スニーカー専用の洗濯機がコインランドリーにあってさ!」というものだった。

周囲の視線ゼロかつ外でしか味わえない行動と、それ特有の高揚感がある。
深夜が好きな理由も大体同じだ。

もう変人で結構。スニーカー家で洗うのダルいし。やってること面白いし。

初めて文明に遭遇した猿の動作になりながらも、無人のコインランドリーでたった今履いていた黒いメッシュのスニーカーを洗濯機に入れた。

初めてのライブハウスでコインロッカーの使い方が分からず400円が余分に吸い込まれたのを思い出した。ライブハウスに初めて行ったの、5年前なんだけどな。

また「ワーキングメモリー」が高いことから、嫌な体験が記憶に残りやすいところがあるのでしょう。

話聞こか?

20分の洗濯代が200円、20分の乾燥代は100円。履いて帰るから乾燥を2回かけてみるとして、400円で1時間と少しくらい本が読めるっぽい。

何故かゾクゾクしながら本を読んだ。楽しかった。
読んでる本の内容も相まって、急に世界が面白い。

途中で気づいたが、コインランドリーには入店音がない。確かに無人で誰かに知らせる必要もなく、待つ人の邪魔になる。合理的だ。

むしろ洗濯によるちょうどいい雑音しか鳴っていない。寒くなく暑すぎないし、そこそこいい椅子に座れる。合法的にその場にいることさえ成功すれば、かなり読書向きの場所だ。

そして、入店がわからないから本当に気づいたら人がいた。
1時間で入店自体が4回、目が合ったのが2回。

最後に目が合ったのは「めたふぁー(隠喩)」「めとにみー(換喩)」などと難しいから独り言で口に出していた時、気づいたらはす向かいに座っていた人からの視線だった。

恥ずかしいけど、もう全部恥ずかしくはあるからどうでもいい。一旦他人をバカにしている自分のブーメランを跳ねのけるフェイズがある。

1時間経ってキリのいいところまで本を読み、ふっかふかさらさらポカポカになったスニーカーの履き心地にニヤけて帰った。
見た目もなんだか綺麗だ。この体験で400円なら安いが、毎回スニーカーを洗うわけにもいかない。

洗濯物をわざわざ徒歩で持ってくるには遠いし、何もなしに洗濯待ってます顔で座って読書する度胸はない。
2か月に一回くらいこれをする選択肢が増えたな、とルンルンで帰った。2か月後にこんなに暇を楽しめる保証はない。

街や地下鉄で出会う主張の強い人って、他人の視線が元から気にならない人と、視線が気持ち良くなっちゃってる人とそれぞれいるのかもしれない。
散歩中の口笛くらいだったらギリ気持ちいいのかもな。戻ってこれなくなりそうだけど。

今更ではあるけど、今日は頭が賑やかな日だ。
日記を書きたくてしょうがなかった。

帰って遊びの予定を擦り合わせた。珍しく2件の予定を抱えていて、類友によって主体性が誰にもないからか、どちらも主導権を握る形になっていた。

片方の1件は体調不良者が出ておじゃんになった。おじゃんになった方は、おじゃんにした、という方が近い。男女混合の人数の4が2になったから、と書けば大方伝わるだろうか。

もう1件は中学の同級生。遠い予定を立てたくない人間同士の男3人だから気が楽だ。

明日、生まれて初めてホラー映画を見に行く。
苦手だから内容次第で断ろうと思ったが、かなり好みの似ている人の地元帰省中の誘いだから乗った。流石にハッピー。

3人中1人がその帰省中の友人で、もう1人はたまに遊ぶ友達。

その人と、ネット通話で予定を合わせることにした。帰省中の友達は「出先だから勝手に決めてて!」という適当っぷりで、空気感が心髄まで沁みる。

2月17日に映画を見ることだけが決まっていて、集合時刻が決まったのはついさっきだ。そのあとの予定も「流れで適当に……」としか言えなかった。

12時間後の予定じゃないと乗れないような人間の集まりだから、逆に合理的かもしれない。
雑談内容もそんな感じだった。内定が決まった会社からの課題が終わらないとか、日々に動きがないから小鉢の植物育てるのが楽しいとか。
手入れの簡単な植物を育てているらしく、明日サボテンを貰えることになった。おもしろ。

会話中に日記も1回だけ読んだことがあるわ!と正直に伝えてくれてすき~~~!となった。それでこそだ。
自分が女々しいって自覚が日に日に増している。
その素直さとだらしなさと純粋さと気さくさだからこそ、この友達に無理やりにでも会いに行くんだよな。

たぶんこういうこと書くの良くないんだけど、女の子じゃなくてよかった。
冒頭に引用した星野源の恋愛論に従うなら、ルンルン気分の今日にこうなってしまうことでより説得力が増している。あまりにも惚れやすい。

あと人間として大好きな人に異性ってだけで接するのが億劫になることもそれなりに増えていて、自分だけおじいさんってことに認識が折れ曲がってほしい。己の認識も、他からの認識も。
そのうち解決するから、繊細なまま書いとくか。


楽しかったことだけが伝わった、ただ長い日記だった。好きでやってるからね。

知り合いから日記の感想を聞いた時、「よくこんなに書けるね!」「骨太!」「思ったよりしっかり書いてる」と必ず言われる。
「長い」「暇なの?」というネガティブな含みを感じなくもない。
自分ではそう思うからだ。

日記を書いていない僕の前に、仮に同じような人が現れたら同じことを言うだろう。
その時の僕は「いっぱい書けて凄いな」って素直な気持ちで思うんじゃないだろうか。
パッと読んで褒められる部分なんて、すぐには探せない。その時に含みなんて全くない。

一旦認めてみる。
ナナメの殺し方ってこれだろうか。

読み返してみて、「こりゃまあ週1で泣きはするか~」と思っている。

僕が嬉しいと、僕も嬉しいよ。
落ち込むなよ~!

こなまるでした。

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