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意味ありげで意味ないGarbage 23/12/30

15時に起きた。
この書き出しをしてしまうのは、書き出してみないと思い出せないから。

なんかインターネットしか触ってないのに、挨拶回りみたいな日だった。
締めくくりみたいに挨拶を返し、年末の今日が誕生日の古い友人にLINEしてみて、Vtuberが振り返り雑談配信しているのを見てようやく年末の雰囲気を感じ取ることができた。

3か月くらいずっと休みなせいで、ちょっとずつ季節イベントがわからなくなっている。クリスマスは全然わかんなかった。イブM1のせいでもある。
仕事していた時もわかってなかった感じはあるけど、少なくとも特有のお客さんや飾り物があったから年末年始を感じることはできていた。

過去に留年なんかもしていたけど、正式な無職としては初めての年末年始になる。そもそも年末年始自体がやけに楽しいよね。

そういえば留年していたことをあんまり公にしていない。当然恥ずかしいから。自分としても大きく気にしているわけじゃないけど、自虐以外でわざわざ言うものでもない。
こういうことを書いたり言ったりすると、「そこらへんの良識はあるんだ」と言われることが最近ある。ちょっと急にハッチャけすぎなのかもしれない。

「恥」はあるんだけど、不思議と「照れ」はないかもと今日は思っていた。インターネット年末挨拶をする時に意図的に長文にしたから、たまにラブレターみたいな文章になっていた。

恥も照れも周りからの視線があるから発生するものだけど、その違いは「理由があったかどうか」じゃないかって思った。自分のなかに明確な意味があったかなかったかで、恥ずかしさを自ずと決めているのかもしれない。

だからウケないギャグを言うのも、Twitterのアカウントを自分からバラしにいくのも恥ずかしくない。自分の中で理由がある。
「見てもらうために口に出してる・文にしてる」「どうせ素性はバレる」「そういう人だと割り切られ見限られるのは諦めている」からだ。最近はなんならバレたいまである。

だとすると、僕の中で留年には意味付けができていないことになる。
でも本当にしたくてしたわけじゃなかったし。
もっと極論を言えば「やりたくてやったことは恥ずかしくない」「やりたくないのにやってしまったことは恥ずかしい」だと思う。
まあ恥ってそうか。なんか一般的にやりたいと思ってやらないことも、進んでやりたいと思ってしまうから恥ずかしくはない。一人寿司も一人カラオケも徘徊も恥ずかしくない。むしろやりたいから。へたくそなイラストをネットに上げて段々上達するのも、やりたすぎるから恥ずかしくないものだ。兄がそういうのを始めていた。

仕事を辞めたのも自分で決めたことだから書けていて、たとえば無断欠勤だとか能力があまりにも足りなくて事実上クビになったみたいなのだと僕は書けないかもしれない。

至極当然のことを書いているようだけど、これを明確に言葉にすることってあんまりない。言われたことは全くないけど「恥ずかしくないの??」みたいな言葉って、なにも相手をわかってないなと思う。恥ずかしくないからやってんだろ。

人へのラブレターみたいな長文も、本当にその人に感謝を伝えて、あわよくば嬉しくなってもらおう!って気持ちが明確にある。
これで恥ずかしくなるくらいなら、挨拶なんてそもそもしない。


そういえば今日、一番好きな日記を書いていた人の毎日更新が5日前くらいから止まったのに気づいた。相手方から反応が来るような人では全くないけど、小説が書きたいとずっと言っている人だから急に止まるくらいはあり得る。
他のSNSで動いてる確証があるだけよくて、僕もこの日記は生存報告みたいなものだと思っている。

親しかった中学高校の同級生にもたまにURLを教えている。自分の頭の中のうるさすぎるノイズが誰かの賑やかしになったら、これ以上幸福なことってない。「見たかったら見てね」くらいで押し付けているけど、それで見限られるような人たちにはそもそも送っていないし。

今日が誕生日だった小学生の頃からの知り合いにも、勢いで送ってみた。
その人は生きていて最初に見た言葉遊びが異常に好きな人間で、連絡は取り合わないけどたまに思い出す人。趣味は合わなそうだけど、気は合ってると思う。見てくれてるのかはわかんない。


何度も書くように、日記って誰も見なかったら見なかったで面白い趣味ではある。ただいたずらに吐き出すって感覚で、自分で振り返ることができるだけ最高。

この前「言語化を下手にすると他人に影響するからよくないんじゃないか」みたいな知らない日記書きの投稿を見た。noteではなく。
第一に日記書きがそんなことを書かない方がいいと思ったんだけど、それは一旦隅に置いておいた。元も子もなさすぎてまずそれを一番言わない方がいいよって気分になった。

「伝えることが上手くない場合に人を傷つけてしまう」ことへの苦悩だと思う。

よくないタイプの言語化があるのは仰る通りなんだけど、結局他人の問題だ。必要以上によくない影響を受け取ってしまう人がいるとしたら、その人自身が受け取る前の情報を切り捨てるべきというか。
その人は優しいから下手に言葉にしない方がいいのかも……なんて思うんだろうけど、キリがない。

確かに、過激に一極に振れた考えは人を惑わせる。たとえば不快に思ったクチャラーがいるとして、「クチャラーはバカ」ってハッキリ書いてしまうことによって極端に生きづらくなる人もいる。それぞれの事情が全員にある。

僕が「節がある」「近い感情」「○○だけど××」みたいな言い回しをよくしてしまうのも結局全部曖昧なほうがいいからだ。それでも自分の史上に「そういう状態だった」って残すのって今のところ言葉以外でできない。
極論事実だけ書いて「なんともいえんなあ」って貼っつけてしまうのが最強だ。でも面白くない。
脳波をイラスト化して保存するみたいなのってないし、見た時にハッキリ分別されてしまうのを承知で言葉にしている。まだ3か月の継続だけども。

今年が終わる。あと一日あるけど、昼夜逆転しまくっているから僕の中でもう2023年は終わっている。
とりあえず仕事を辞めて日記を始めて続けられているのが本当に楽しい。
いい年になりますように、と口を動かさないままただ祈るように挨拶している。

縁起良さそうだしタイトルに白膠木簓を引用してみようかな。挨拶&帰宅Division。
「Garbage」って「生ごみ、残飯、ごみ、がらくた、廃物、つまらぬもの、くだらぬ考え、不要データ」らしい。
「挨拶」が「Greeting」だったから、もじってそっちにしようかとも思ったけどやめた。

よろしゅうほなね~!

こなまるでした。


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