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さまよわないで、たゆたいたい 24/04/22

風邪、治ったかな?と思いつつ起きた。
とりあえず痰はおさまっていて、データ上は平均的な健康状態にある。足つぼマットに乗っても全く違和感を感じる部分がない。

「痛くないってことにしている」みたいな思い込み方(我慢)もできるのだけど、この時は全く痛くなかった。足つぼマットが痛くないって相当すごい気がするな。わかんねーけどよ。健康ゲームの面白いところはこれである。

しばらく走りたい欲が抑えられていたので走ることにした。条件付けとして音楽っていいな♪→歩くのっていいな♪→走ったら凄いかも……?→走りながら聴く音楽ってすごいな♪なので、元から走るのが好きだったわけでは全くない。たぶん。いや、でも子供ってだいたい走るの好きじゃね?童心取り戻しただけ?走るのが嫌いなんじゃなくて「速さで競わされる」が嫌だったのかも。

三つ子の魂百まで、みたいな部分を最近はかなりの割合で信じ感じていて、そもそも歩き回るの自体は好きみたいだ。部屋でぐるぐるする兄を見て異常だと思っていたから抑えてたけど、通話ネトゲしてた小学生の妹の後ろでひょうきんに踊ることもあったし。
妹の通話先のベガ☆っていうお兄さん(怪しい)(今何してんだろ)に面白いって言われたくて。

なんというか、そもそもの興味が広いのと親も自由にさせてくれすぎて、あまりにも勉学のスキルポイントが振られてないんだよな。
でもこうだったからこそ自分より上の世代のカルチャーがわかるのも嬉しいし、別に因果関係的(環境とタイミングと遺伝と教育方針的)に自分がこんなでも適切としか思えないし。

学問のすすめの言うこともちょっとだけわかるようになった気がするし、ただ運命論的などうにもならなさも両方正解だと思う。問題は自分で決められるかどうかで、暴走しないようにするために周りがいないとだめっぽい。読んでみよっかな~……学問のすすめ……。

そういや我が家の多動の感じで言えば、昔流行った”うちの三姉妹”に近い。

えっっっっっ!?!?!!?待って!?!?!!?

次女がYoutubeしてる!?!?!?!?

作ったゲームを宣伝し終わって休止してる!??!!??

”あの頃”のホームビデオを母がゆるいアニメ化してる!?!?!!?

……すみません。取り乱しました。松本ぷりっつ、末恐ろしいクリエイターだ。子供側は同年代だし若干のシンパシーを感じるんだよな。
全く別物だけど、年代で言えば「ツレがうつになりまして」も共感できる部分が多い。

自分のネガティブな記憶が割と取り除かれつつあって気づくことが多いんだけど、よくよく思い出すと小学3年生くらいの頃が結構落ち着きのなさのピークだった気がする。

基本的に話を聞けてないから音楽の授業中に「はいっ!今からリコーダーの練習です!」の「はいっ!」だけ聞いて休憩だと思い水分補給をしに教室の後ろの棚に一人で駆け寄って心配されたり、スーパーの裏側職場見学で開けちゃいけない棚の書類を勝手に開けようとして怒られた記憶がある。

だいたい10歳頃に二次性徴と父親の調子が悪い時期かつ引っ越しが重なって、その後10年くらい寡黙気味に終焉していたので、親しい人に多弁で大人数だと寡黙の両極端になってしまう。大人数でパスを回しているような会話が本当にまだきつい。

明るさと暗さは場面ごとにスイッチを明るさをオンオフしている感じで対応している。
メーター形式で放っておくと、ドン底の憂鬱か暴走した明るさに振りきれてしまうような気がして。この350°くらい振れるメーターの幅をグッと縮めるのがADHD治療薬って気がしなくもない。

思い込みかもしれないけど、今は気分が上がった日の翌日下がる、気分が下がった日の翌日上がる、みたいなことが本当に多い。

ちなみに、一日なにも気にせず散歩とランニングをしてハイになり→ご飯を作ったりお皿洗いなどをしていた。懐かしい家庭の想い出くらいしか書くことがない。

大がかりなお風呂掃除もした。だらしな一族なので、カビだらけを気にしたことがない。潜在的には汚さも気になっているけど何より父の衛生観念が終わっており、合わせたようにそこらへんがどうでもいいまま暮らしている。

というよりはここ30年ほどで一斉に衛生観念や中毒的娯楽がアップデートされすぎてて、ついていけてないだけだと思う。

お風呂掃除って自動で発生する無限のタワーディフェンスみたいですね。もしくは消しても勝手に浮かび上がってくる路地裏の落書き。こういうのをはやめに対処したほうがなんだかんだ精神衛生上も良い。

かなり見た目に気合を入れてポークステーキを作ったものの、見た目だけ気合が入りすぎて冷めきってしまい、かつほぼ全員食欲がないらしく食べきられなかった。

そもそも自分だけが学生くらいのバイタリティで動いてしまって、初老の夫婦とジャンキーな間食の多い兄と歩幅が合って無さ過ぎるのをひしひしと感じた。父親に至っては歯も腸も弱っているので、ここまでの全ツケを還暦にいかない段階で払っている感じになってしまっている。そうなると確かに自分で惣菜買って食べたいわな。

何より、味噌汁が作ってあっても漬物が置いてあっても口をつけない人たちであることを失念していた。一菜でええんです。

食べたい時に食べたいものを食べたい量だけ食べる人達だからこそ、自動的に主菜と白飯のみのラインナップになっていったんだった。
丁寧な暮らしにしようとはしてないんだけど、なんか雑多じゃない状況に安心できていない感じが雰囲気としてある。この家って積極的な掃除や健康的なご飯を作る”甲斐”がないからこうなってるのかもしれない。でも他人の食べ方を否定することで起きる悪影響の連鎖も知っている。

散歩1時間とランニングを30分しただけでかなり心身が興奮している感じがして、社会に合わせると家族と合わないジレンマを感じ、翌日の職業訓練校入校の準備をして、いつもより入眠に時間がかかった。

基本的には一度寝たら起きないけれど、こういう日は中途覚醒が多い。
幼い頃の深夜、余裕がなく寝ぼけ眼の母に相談すると「瞼閉じたら寝れるから瞼閉じて」と理不尽なことを言われたことだけ覚えている。
が、確かに健康的な生活を送って身体疲労がある時に瞼を閉じたら寝れる。

あと「睡眠に集中!!!」「シャットアウト!!!」「スマホ見ない!!!」くらいリラックスしながら気合を入れて、ようやくなんとかなる。たまたまストレスが少ない状況下なので今はこうだけど、習慣が崩れた瞬間に簡単に眠れなくなる可能性はあるなあ。医学的な基礎をやってみることに対して、食わず嫌いが凄かったのかも。

この日書きたかったこと。

この一連の言及に全くもってその通りだと思うと同時に、向き合い方のバランス感覚が試されてるな、とも思う。実際やっていると、際限なくそれだけでよくなっちゃうのだ。身体性の知覚を歩きまくって獲得しないと、どんどん現実味が薄れていく。人と話してもゲームをしても「楽しすぎてずっとやっちゃうな」って思う。

「普通」がよくわからないのは、環境も教育も遺伝もタイミングもあるが、とにかく実感が伴っていないからだ。最近は生きてりゃ苦痛も味の一種だな、と思っている。言って聞かせるものでもなく、本人がどうにか決めて納得することだ。

ただ誰かに強いるのはあまりにも酷で、これが一個の選択肢としてありますよ、ってことにしとかないと元々一番苦手だった人たちの態度になってしまう。

22歳でわかるはずがないことを無理にわかろうとしている痛みかもしれないけど、「同じ地獄で待つ」って広く言ってくれた星野源の追っかけみたいになっちゃいそうだ。

『ポケモンGO』が楽しい。
 (中略)
 人々が外でスマホの画面を見ているのは異様、特に子供は森林で虫を捕まえたほうが健全、と言う人もいてその感覚もよくわかるけれど、そもそも虫には虫の一生があり、人間に捕まえてほしいと思っている虫なんか一匹もいないのだから、ヴァーチャルでモンスターを捕まえて喜ぶほうが健全だとも思う。
 勝手にさらわれ、小さい檻に入れられ、一生を観察されて生きるのが嬉しい生き物なんていない。モンスターボールでポケモンたちを捕まえるたびに思う。
 これがゲームで良かった。

『ゲームで』 162p いのちの車窓から/星野源/角川文庫

この書き方は極端なんだろうけど、少し気持ちがわかる。僕はここまでないけれど、虫を本当に殺せず(罪悪感に苛まれるかららしい)家に出たら喚いてタイミングを見て窓の外に返す同年代の友達もいる。
生まれ落ちた限り発生する生物利用のし合い、という見かけ優しい罪悪感の連鎖のドツボに、豊かでフィクションも多彩な現代の子こそハマりやすい。というかその見て見ぬフリ自体はできていても、実感と覚悟が伴わないのが大半だ。

でもやっぱ楽しくなりすぎて周りが全く見えなくなっちゃうこととか、悲しくなりすぎて外に出たくなっちゃうこととかが、なんとなく今はまだ怖い。
気分の波の中に彷徨わないように、揺蕩うくらいの継続で器を広げて行きたいな~……と言葉では思えている。

たゆたいたい←だいぶ野原ひまわり

こなまるでした。

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