「世界を革命しなくていい」そう言われてしまったマゾの行く末。

記憶の淵に残るのは、いつか、人生で初めて見にいった好きなグループのライブ。フィナーレが近づく本編最後のMCで、グループの顔とも呼べる彼の言葉が、延々と今まで心の中に折り重なっている。

記憶は定かではないけれど、確かこんなことを言っていた。

このプロジェクトは、「日本を元気に」とか言っていますけど、僕らがみんなを元気にするとかそういうおこがましいことじゃなくて、僕らと、みんなで、一緒に幸せになっていきましょう。

このライブを私は二階席から見ていた。二階席というのはアーティストをリアルに感じるのにはあまりに遠い場所で、観衆に囲われたステージにいるみんなは、むしろその身体を「夢物語」という箱庭、あるいは棺に納めているようで、その暴力的な構造に私は恐怖し、まるで少女ルサンチマン漫画に登場するロリコンのような気持ちで、許しを請いながら彼らの姿を追いかけていた。

だからこの時も、心のどこかで「これがフィクション側からの表明か」とそのMCを受け入れた。彼らが真剣になって彼ら自身のことを表明したその瞬間でさえ、私が見ていたのはマゾヒズム的な幻覚だった。

「僕ら」それは、現実に心と体を持ちながら、半神話化した、いわゆる偶像としての彼らを表す言葉でさえある。いわば、世界を革命する力を持つ戦士たちだ。

そして「みんな」は、そこにはどうやったってたどり着かない、けれど誰より、戦士たちの幻想に眼を焼かれ、支持や消費を通してその幻想を祭り上げる舞台装置としての我々ファン。それだけではなく、そう呼ばれた観客ひとりひとりのリアルな身体さえも掬い上げる言葉だ。

今この瞬間、「社会」や「世界」は存在しない。この場所でアイドル的な約束を交わしたのはあくまで「僕ら」と「みんな」である。その契約空間においては「社会」と呼ばれる不特定他者は「みんな」の中の誰かとして同化されるか、あるいは単純に不可視化される。

この契約はある意味ではただのアイドル的な契約にすぎない。しかし、その言葉は別の意味作用を伴って確実に私の澱になった。

世界を革命する力を持ち、所謂近年の「ファンの活気」的な社会運動を牽引できる彼らは、実際に世界を革命しようと、言わなかった。それどころか、その革命を放棄して、この契約空間だけで幸福を得ようとしている。

実際に彼が言いたかったことは「ファンの中に僕らの血が流れ込む、そうして意気を得たファンは生存することができる」「同時に、ファンの存在が僕らの肉になり、僕らは生存することができる」ということなのだから、ファンがその眼を焼かれた後にすることは「ファンの活気」的なものと変わらないのかもしれない。

しかしそこに「世界」を介在させない、そして、その場所だけが幸福になるというのは、非常に新鮮だった。

遠い昔からサブカル 的な世界観においては、それがルサンチマンで、マゾヒズム的なものであればより、現実への帰還を必要とする構造が存在していた。

アンシーも、長門も、プンプンも、リリーも、ラムも、シンジも、渚も、夢を見るのはそこそこに、我々はこの現実を生きなければならない、それが夢の原罪だった。今のマゾはよりその構図に敏感な気もする。

しかし現実世界における他者のメタファーである「世界」の存在しない空間。それを肯定してしまったら、それは、「夢から覚めなくていい」ということだ。夢を夢のままに、原罪を背負うことを拒んでいる。

夢の方が幸せで、救われていて、そのままでいい。そんな世界観、はいかにも破滅的だが、しかしそれで何か問題はあるのか。ある。フィクションでは多くの場合、そんなところで肉体的な限界がきて、現実に帰るか死ぬ羽目になるだろう。しかしそうして理想の前に斃れた何人もの死体の山にシンパシーを向けてみよう。それらの仮想死体たちはただ、現実に立ち向かう勇気とやらを得るために死んでいった。死ぬために生まれてきた。死ぬのがわかっていて何故?

偶像化した存在、もしくは偶像のために生きている存在。その二つだけがあの空間にいた。その時夢に斃れた死体に向けられた感情は不要なシンパシーではなく、切実な半身の崩壊だ。だってみんな、「今」夢を見ているのだから。半死の危機に際して、現実で生きていこうだなんて、それは自殺行為だ。みんなやってる親殺しだ。しかしあの空間で殺すようなことは言えなかろう。あの場の誰もに生きていて欲しい。それはあの空間における相互承認の、あのとき一番高まった形なのだから。

あれ


でもそれ










宗教じゃね?













おお、マゾいマゾい。

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