「現実」と「創作」の境界線

こんにちわ。

Twitter上で話題にもなっている、千葉県松戸市のご当地VTuber「戸定梨香さん」の松戸市警察コラボ動画について、全国フェミニスト議員連盟より抗議を受けた騒動について、連日様々な議論が飛び交っています。

上のおぎの議員、青識亜論さんら有志による抗議文の署名活動はすでに40000筆以上の署名がありました。

この議論についての見解は各所で語られているため、私なんかが述べることはありませんが、ふと気になったことがあり、このnoteを書いた次第です。

はっきり言って、自分の中での結論がよくわからないままに書くことをお許しください。

1 「胸揺れ」

この騒動における議論に関して、ひとつ議論の焦点となった話題です。

「動画のVTuberの胸は揺れすぎ。現実はあんなに揺れない!」


頭がポカンとなりました。人間のごく自然に起こりうる現象に「なに言ってるんだ?」としか思えませんでした。(そもそも動画では揺れがはっきりとわからなかった…)

この話題が、いつしか「ブラジャーをしていれば揺れない」「スポブラをしていれば揺れない」という謎の主張に発展し、多くの女性アカウントからも多数の反論がなされました。(この謎の主張のほとんどが男性アカウントだったことにも絶句……)

この話題に関して私は少し食傷気味だったこともあったのですが、ふと気になる言葉を見かけました。

「現実で揺れないのに、創作で揺らす必要があるのか」


「現実」と「創作」、二つの言葉を用いてVTuberの動画を批判しているツイートをちらほら見かけました。

なぜ、「現実」で起こり得る現象なのに、「創作」で描くのはNGなのか。この人たちの「現実」と「創作」の境界線ってなんだろう?


創作はフィクションの世界。そこは作者の内心のもとに描かれた世界。その創作の世界観を描くために現実のものをモチーフとするのも、想像で描くのも、作者の自由です。

しかし、相手側の主張は、「現実」に則していないものは「創作」としては認められない、と私は感じました。

思えば二次元キャラクターの広告に対して批判の火を着けた人たちの中には、「現実にはこんな描写ない」と言っている方も見受けられました。

この記事にて、運営会社である株式会社Art Stone Entertainmentの板倉節子社長は以下の通り述べています。

「そもそもVTuberというのは、見た目や年齢、性別にとらわれることなく、なりたい自分を表現するもの。着たい衣装を身につけられるし、どんな世界にも飛んでいけるという、ICT社会における日本文化の発信だ。だからアニメとはまた違うし、それぞれが個性、人格を持ってやっている。戸定梨香は1年半前に私たちの会社が作ったものだが、もちろん人格を持っていて、アイドルが好きな子だからアイドルが着ているような衣装を着ている」

なりたい自分になれる、そのVTuberたる最大の魅力を、相手側は「現実に則していない」と批判しました。これが「現実」に存在する「戸定梨香さんを演じる女性」、「戸定梨香さんをプロデュースする女性」を苦しめたのです。

頭がバグってきました笑

どこからが「現実」でどこからが「創作」なのか、その線引きを、彼らはどこを拠り所にして引いているのか。

私個人の考え方としては、全国フェミニスト議員連盟を含めた批判派の多くが、VTuberへの理解が足りないことから発した問題なのかなと思っています。VTuberの特徴は、「現実」(アバターのクリエイター、アバターの演者)と「創作」(アバター)が入り交じることで完成された新たな表現方法と思っていますが、その成り立ちを知らない方からしたら、今までの漫画やアニメと変わらない「創作」のみのものっていう見方しかできないのかなと思うのです。

この騒動を見ていて、実は私は、とある「現実」と「創作」に関する「騒動」を思い出しました。

2 「ライスシャワー慰霊碑騒動」

この騒動を語るにあたり、あるスマートフォンゲームを紹介します。

株式会社Cygamesよりリリースされた「ウマ娘 プリティダービー」。

過去に「実在」した競走馬をモチーフに「創作」された「ウマ娘」というキャラクターたちがレースを繰り広げるゲームです。

ゲームファンはもちろん、競馬ファンも取り込み人気に火が着いたこのゲームの中に、「ライスシャワー」という競走馬をモチーフにしたキャラクターがいます。

競走馬のライスシャワーは、ステイヤー(長距離が得意な馬)として、1992年菊花賞、1993年、1995年天皇賞・春を制しました。しかし、1995年の宝塚記念のレース中に骨折、予後不良と診断され、安楽死の措置が行われました。

そのライスシャワーをモチーフにしたウマ娘「ライスシャワー」。漆黒のドレスと青い薔薇が特徴のキャラクターです。

画像1

(画像引用:https://umamusume.jp/character/detail/ ©️株式会社Cygames)

同ゲームにおいても人気の高いライスシャワーですが、ライスシャワーのファンが起こした行動が批判を浴びました。

京都競馬場に建立されている「競走馬」ライスシャワーの慰霊碑。そこに、ウマ娘のファンと思われる方が、「ウマ娘」ライスシャワーが身に付けている青い薔薇を供えた、さらには慰霊碑の上に乗せた画像をツイートしました。

これは様々な批判を浴びました。その中でも特に多かったのが…

「現実」の競走馬ライスシャワーと、「創作」のウマ娘のライスシャワーの区別をつけろ!


という批判でした。

これは「創作」のライスシャワーに出会ったことで、「競走馬」ライスシャワーに興味を持ち、行ったことにどうしてこんなに批判されなければならないのか、という擁護の声もありました。

推測ではありますが、このファンの方はライスシャワーという馬、そして「創作」されたキャラクターの理解はされていましたが、理解を「深めすぎた」故に「現実」と「創作」の境界線が見えなくなり、このような行為をしたのかな、私は思っています。

(参考:京都競馬場 記念碑に関しての記事)


3 「境界線」をどう伝えていく?

たった二つのケースではありますが、「現実」と「創作」の境界線が見えなくなることは、批判者だけでなく、創作物を愛する者にも起こり得ることだと私は思いました。

何が現実で何が創作なのか、これの理解を深めることで境界線をしっかりと見定めていくことが大事………と言っても、私には当たり前の感覚を持ち続けるほかないので、どうすればいいのか、今も頭のなかで悩んでいます。そして、子供を持つ親の身になってから、「それをどのように子供に伝えていくのか」を考えるようにしなくてはならないな、とも思いました。

「これはいいことで、これは悪いことなんだよ。」

これを子供に教えるのが、いかに難しいのか…ふと、この騒動を眺めてて、頭によぎったことを、乱文乱筆ながら書き留めた次第です。







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