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港区立東町小学校の創立110周年に関わるお話(2023年11月18日開催の創立110周年記念祝賀会に向けて)
1.沿革
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2.校歌(昭和8年11月制定)
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3.東町小学校の設立と当時の様子
1913年11月14日に港区立東町小学校、当時の名称では「東京市東町尋常小学校」の開校式が挙行されました。大正2年のことです。
その当時の学区周辺はどのような様子だったのでしょうか。
東町小学校出身の辻堂真理氏が著した名著、麻布十番 街角物語では下記の描写がされております。
地下鉄「麻布十番駅」の7番出口から地上に出ると「麻布十番稲荷」の鳥居がすぐ目に入りますが、その鳥居にも名を刻まれている喜劇役者のエノケンこと榎本健一の著書「喜劇こそ我が命」に、明治末の麻布十番の様子が描写されています。同書によると、「当時の麻布十番な芝居小屋はあるし、夜店も毎晩でるなど東京でも屈指の盛り場だった」といいます。
麻布十番に花街を設立しようという動きが盛んになったのはちょうどその頃で、当初は善福寺の東側地区と「賢崇寺」北東側の一部を三業地として申請。三業地とは、料理屋・待合・芸妓置屋の三業が集中する地域の俗称で、三業を営むには警察の許可が必要でした。(中略)
こうして大正2年(1913)年11月、待合茶屋2軒、芸妓置屋7軒、芸者14名という小規模で営業を開始した麻布十番三業地は、関東大震災後に目を瞠るような伸長を遂げます。山の手にあって火災を免れ、家屋倒壊などの被害も少なかった麻布十番に、下町方面からの罹災者が流入。被災した芸妓置屋や待合の経営者なども麻布十番で新たに開業することになり、その結果、芸者四百名、待合六十軒余、芸妓置屋五十軒という一大花街が麻布十番に出現。
また、花街の隆盛と歩調を合わせるように、大正期から昭和にかけて芝居小屋や寄席、映画館なども相次いで開場し、麻布十番は山の手の新興歓楽地としての地位を確たるものにしていきます。
ほかに大正期の麻布十番では芝居小屋と寄席が隆盛をきわめました。
大正八年(1919)に開場した芝居小屋「末広座」は、収容人数1024人を誇る大型劇場で、震災の翌年に明治座がこの劇場を借りて二代目市川左團次の一座が興行を打った際には、切符を買い求める人が一之橋の電停まで列をつくったといいます。末広座は現在のダイエー麻布十番店の場所にあり、劇場前から十番商店街を抜けて、一之橋まで延々と300メートル以上も列をなしたのですから、さぞ商店街のみなさんも仰天したことでしょう。
一方、寄席の定積には「十番倶楽部」「福槌亭」「一の学」(講談)などがあり、震災後の笑いに飢えた人々が詰めかけ大繁盛だったようで、麻布十番が関東大震災という未曽有の天災を契機に一層の発展を遂げたことは間違いないようです。
開校式の翌年の大正3年(1914年)4月4日の官報には、下記の記載があります。
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ここには「正五位勲三等 坂元 常英 大正元年十月東京市立東町小学校建築費金一千圓寄付候段奇特ニ為其賞銀杯1箇下賜候事」と記載されています。これは東町小学校建築資金として1,000円の寄付をした坂元常英氏に、国から勲章代わりの銀杯が叙授されたものです。
当時の1,000円の価値は、現在では100~400万円に相当するようです。
続いて大正時代の1円の価値を見てみましょう。
1913年(大正2年)の企業物価指数は0.647なので、2019年と比べると、1,080倍の差があります。つまり、1円は1,080円程度の価値があったといえます。
先ほどと同様、当時の給料をもとにして考えた場合、大正時代の小学校の教員の初任給は50円程度だといわれているので、1円は4,000円程度の価値があるといえます。
白米の値段をもとにしてみると、大正元年の白米10kgの値段は1円78銭だったといわれているため、当時の1円は1,471円程度の価値があると考えられます。
4.城南読書楼
開校から12年後、大正15年(1925年)に刊行された「東京の史跡」の「麻布区」の項目に、「善福寺の大銀杏樹」などに並んで「城南読書楼阯 東町東町小学校敷地」との記載を見ることができます。
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この東町小学校敷地にある「城南読書楼阯」とは何なのでしょうか。
続く記載には「享和年間林述斎が高弟大郷信斎に命じて麻布古川端に教授所を設けさせたその学塾である。」とあります。
少し調べて見ると、戦時中の昭和18年(1943年)刊行の「東京都史蹟名勝天然紀念物」にも同様の記載が見つかりました。
城南読書楼阯 東町国民学校内
享和年中大学頭林述斎、高弟大郷信斎に命じて麻布古川端に教授所を設けしめたる阯なり。
もう少し調べてみます。すると、昭和6年(1931年)刊行の「麻布鳥居坂警察署誌」の「第四章 史跡」の欄にも「城南読書楼趾」の項目を見つけることができました。こちらの方がより詳しく記載されています。
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城南読書楼趾
今は跡方もないが東町三拾一番地邊りに享和三年癸亥林大学頭に依って麻布古川端に建てられた教授所が此城南読書楼で南校とも呼ばれた。麻布は湯島の学問所(昌平校)より沿革の地にあった為、大学頭が特に此處に建て此付近指定の就学の便宜を計った。謂はば昌平校の分教所の如きものであった。明治初年戌辰の變の時廃校となったが此處からは有名な儒者が相當出た。
港区教育委員会で発行した港区教育史にも次の記載があります。
また、武芸教育施設を除く、幕府直轄の学校には次のようなものがある。
・和学講談所(寛政5年)麹町六番地 塙保己一
・開成所(文久3年)九段坂下 古賀茶渓
・医学所(万延元年)神田お玉が池 伊東玄朴・大槻俊斎
(年代は幕府移管を示す)
・城南読書楼(享和年間)南麻布一丁目
述斎大学頭林衡が、古川端に建て「城南読書楼」と命名した。学校は昌平黌の支塾であり、当時の学生は「南校」とよんだという。学頭は、越前鯖江藩士大郷信斎で、林門五蔵の一人であった。
幕府直轄の教育施設と江戸藩邸内の武家教育 P.88-90
享和三年というと1803年。米国の艦艇が長崎にて通商を求めてきた十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が出版されたのが前年1802年、ナポレオンが皇帝になったのが翌年1804年です。
今(2023年)から220年前に、東町小学校の地に「城南読書楼」という数少ない幕府直轄の学校があったことになります。
5.城南読書楼を作った大郷信斎
これまでの資料に、城南読書楼は「林述斎が高弟大郷信斎に命じて」設けた、とありました。
江戸幕府老中・松平定信が寛政の改革で行った学問統制である「寛政異学の禁」により幕府の直轄機関「昌平坂学問所」(昌平黌)が設置されたのが寛政9年(1797年)、それを推進したのが林家8代で林家中興の祖「林述斎」です。そして、城南読書楼を作った大郷信斎は「昌平坂学問所」(昌平黌)で林述斎に学んでいました。
また、この大郷信斎は、日本で最初の著述家であり『南総里見八犬伝』を著した曲亭馬琴(滝沢馬琴)が主催した「兎園会」正会員12人の1人でもあり、麻布学究とも呼ばれていたようです。
麻布學究 大鄕良川、字は伯儀、通稱は金藏、信齋と號す。越前鯖江藩士なり。林祭酒に學びて、松崎退藏(慊堂)、葛西謙藏(因是)、佐藤捨藏(一齋)等と林門五藏の稱あり(一藏は其人を忘る)。文化の初め、師命を以て、學舍を麻布の古川端に開く。因て城南讀書樓と稱す。弘化元年十月歿す。
曲亭馬琴が主宰する兎園会の正会員紹介
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ここで「林祭酒に學びて」とありますが、祭酒とは大学頭(だいがくのかみ)の唐名で、大学頭とは江戸幕府における官吏養成を担う機関で林家が世襲しており、当時の大学頭は林述斎でした。
信斎(明和八年〈一七七二〉~弘化元年〈一八四四〉)は市橋家から養子に入った。名は良則,字を伯儀,金蔵と称し,のち信斎と号した。幼少の頃から芥川思堂(鯖江藩儒官)に師事し,経史を修めた。のち江戸に出て,昌平校に入学,林大学頭述斎について学んでいる。鯖江藩では文化十年(一八一三)に江戸三田小山邸に学問の稽古所を開設しているが,この時信斎はその取締役になっている。この稽古所は天保十二年〈一八四一〉惜陰堂と命名されるが,その際信斎は教授に就任,以後惜陰堂は大郷氏の管理するところとなった。信斎は林述斎の信任が厚く,述斎が江戸麻布古川端に学問所を建てて,これを「城南読書楼」といい,俗に「南校」といった。信斎はこの南校の教授に就任し,二十年間余りその職にあった。南校は後に幕府学問所麻布教授所に発展する。信斎の学風はいわゆる昌平学派である。七十三歳で没し,墓石は東京芝の長慶寺中正寿院にある。『信斎文集』,『遊嚢賸記』,『道聴塗説』 などの著書がある。
大郷信斎はその著した随筆『庚寅漫録』内で、城南読書楼について次のように言及しています。
余が城南読書楼新築は享和癸亥(1803年)の春なり、今年まで二十八年の星霜を歴たりき、是迄は年も富、心も剛なれば、數度の近火を事ともせず、天道もし此男を御見限是なくば火難は有まじ、土蔵は入らぬ、火事の手富に及ばぬなど、口巧者を言張けるが、六十といふとる歳には叶はず、血気衰薄に随て危懼の念堪がたし。
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余談ですが、大郷金蔵が交流のあった曲亭馬琴(滝沢馬琴)の作品に最も多く挿絵を描いた浮世絵師は「葛飾北斎」であり、「城南読書楼」ができたばかりの文化3年(1806年)の春から夏にかけての3、4ヶ月にかけて、北斎は馬琴宅に居候していたそうです。
丙寅年画工北斎子。わが著作堂に遊ぶこと。春より夏のはじめに至て三四箇月。
北斎と馬琴は同居するほど親密だったという話 太田記念美術館
6.「城南読書楼」は「麻布教授所」へ
城南読書楼に関する各種資料を読み込んでいくと、城南読書楼は「麻布教授所」として幕末まで存在したようです。
江戸の郷学は、幕府直轄のものとして、深川教授所〔享保8年(1723)〕・麹町教授所〔寛延3年(1750)〕・麻布教授所〔天保4年(1833)〕の3校があった。このうち、麻布教授所は城南読書楼のことで、前述したが、天保4年、鯖江藩江戸藩邸内藩校惜陰堂の儒学者大郷信斎の麻布古川橋の宅地を、幕府の許しを得て大学頭林衡の持地として設立したものである。
ここでは、毎月3回、大郷信斎によって儒学講座が設けられていたが、彼の没後(天保15年10月)廃止された。しかし、教授所はそのままの姿で残り、信斎の養子浩斎、その子学橋に引継がれていった。安政6年(1859)大郷学橋が、国事に奔走したかどで帰藩を命ぜられたあと、林大学頭は、芥川舟之に教授方を命じた。
幕末期の教育をめぐる環境 P.108-111
昌平坂学問所の教師は、はじめ林門に限られていたが、林門以外の儒者の講義もおこなわれ、入門・聴講も幕臣の制限がはずされて陪臣・浪人•町人にも許されるようになって、近世を通じて最高学府の観を呈するようになった。
享保四年(一七一九)、将軍吉宗は町奉行支配下の講座を、高倉中納言屋敷跡に開設させた。これを高倉屋敷と呼び、昌平坂学問所が士中心であったのに対し、貴賤の別なく士庶入込みで聴聞を許した。
享保八年(一七二三)、本所御船蔵裏に住居する浪人儒者が、学文所設置のため土地拝借を町奉行所に願出て、三百四十坪の借用が許され、年々学校費用も給された。塾名を会輔堂といい、深川教授所ともいった。
寛政三年(一七九一)には開塾していた浪人儒者に、町奉行所から麹町善国寺谷の二百五十坪の土地が貸与され、学校費用に当てるため町屋敷六十五坪から上る収金が下された。これを麹町教授所といった。
天保四年(一八三三)、麻布古川町にあった林家拝領の屋敷二百二十坪が、鯖江藩の儒者に学問教授させるために貸与された。これを麻布教授所といった。
深川・麹町・麻布の三教授所は、幕府から土地屋敷の使用を許され、学校費用に当てるための下賜金あるいは町屋敷からの取立金が与えられれ、林大学頭の支配下におかれた。町奉行所支配下にあった高倉屋敷と三教授所は、遠隔のため通学に不便だとか、学問吟味など制度に縛られるのを嫌って昌平坂学問所に入学しないものがあったため、その地域の幕臣の教育の場として設置された。いずれも幕臣の教育を目的としていたが、身分軽きものの入学も奨励した。
昌平坂学問所、高倉屋敷、深川・麹町・麻布三教授所は、幕府の直接あるいは間接の支配下におかれ、各校とも幕臣とその子弟の教育を目的としたものであった。
享和三年三月 城南読書楼東町に開校す。
明治元年 城内読書楼廃校となる。(作者注:城内は城南の誤記)
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7.地図で見る東町小学校
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「間部下総守 家来大郷金蔵 学問教授所 林大学頭持地」の記載
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「間部下総守 家来大郷金蔵 学問教授所 林大学頭持地」の記載
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東町小学校の場所は畑になっている
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東町小学校が出てくる。現在のグランド部分にも校舎が見える。加筆部は震災被災場所。
8.戦後の東町小学校復興
戦災で全焼した飯倉・東町・三河台国民学校は昭和21年3月廃校となった。
飯倉国民学校に引き続き、東町小学校の地元住民からも学校復興の要望が出てきた。昭和29年12月、東町小建設後援会、東町小建設協力会が結成され、組織だった活動をするようになった。この結果、昭和30年4月1日本村小学校で開校、同年7月5日第1期工事完成(6教室、そのほか7室)、本村小学校に併設されていた3年以下6学級が新校舎に移転した。翌31年2月第2期工事が完成(6教室、そのほか2室)ここで南山小学校に残っていた児童も移転し、独立校舎を持った東町小学校が復興した。
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昭和二九年一二月一二日、東町小学校建設後援会を結成、二七日、東町小学校建設協力会設立、同三〇年三月一〇日 第一期工業起工 七月七日 新校舎へ移転 七月二三日 後援会より備品充実費として、四四万一一九〇円を寄贈される。
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戦災により廃校となっていた麻布の東町小学校が、この四月から復活、開校することになりました。廃校以来、同校通学区域の子供たちは、本村、南山の両校に分れて収容されていましたが、年々児童数はふえる一方、本村も南山もこの上教室を増設する余地はなく、また地もと側の要望もあって、東町小学校復活が実現することになったものです。とりあえずこの四月一日から、南山小学校内に併設して開校し、一方東町三〇番地の旧同校敷地には、近く新校舎の建設に着手夏ごろまでには名実とも復校できることになりましょう。
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東町小地区防災協議会 学校の学区域と町内会
9.東町小学校の児童数の推移
1903年 児童536名 11学級
1928年 児童1174名 22学級 職員26名
1930年 児童1160名 22学級 職員26名
1935年 児童1163人 21学級 職員25名
2009年 児童58名
2010年に東町小学校の有効活用に関する請願(空き教室を保育室)
2011年から国際学級試行開始
2012年から国際学級実施
2014年 児童255名
2015年 児童311名 10学級
2016年 児童412名 12学級
2018年 児童468名 14学級
2021年 児童474名 15学級
2022年 児童455名 15学級
2023年 児童461名 16学級
東京市立東町尋常小学校
東京市麻布区東町三〇 電話高輪四九五六番
校長古市富象氏
大東京の人口は遂年満潮の如く膨張し、従て就学児童の増加するは抗す可からざる趨勢にして、これが収容数導に資すべき校含に限りある関係上、ニ部教授の如き姑息なる瀰縫策を講じつつある現状なり。本校は斯る就限児童の激増に備へんが為めに、市内唯一の教育地とも看做さるる山の手の高燥地に学燈新たに掲げられたる学園也。即ち大正元年十月十二日敷地認可を得るや翌二年四月工事に着工し同年四月二十一日東町尋常小学校の名稱を附せられ同年九月十八日第一次の校長として時の飯倉尋常小学校校長西村新太郎氏転任せらる。一方校舎の工事は同月三十日竣成し翌十月廿四日区内既設校の児童五百三十六名を移管収容し之れを十ー学級に編成玆に初めて授業を開始するに至る。今や児童総数千百七十四名これを二十二学級に分ち、二十六名の職員熱誠を傾注して教導の任を完ふし居れば校風淳良卓然たるものあり。現に四圍住民の成業を鑑み実業補習学校を併置しこれ又好成績を収めつつあり。現校長古市富象氏は香川縣木田郡井戸村の人明治十八年五月廿二日の出生にして明治四十年青山師範を卒業し直に飯倉尋常小学校の訓導を拝命し、大正二年十月本校の開校当初に訓導として転任せられ爾来渾身職に努め功労尠からず、同十ニ年遂に訓導兼校長に昇任し今日に至れる壮少氣鋭の教育家也。
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以上
作成・文責
港区立東町小学校創立110周年を祝う会
会長
古長谷 聡
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