学校の学区域と町内会

東町小学校の学区域について
港区のホームページよると
下記の住所の方々が学区域になります。
「麻布十番2丁目9番~21番、3丁目、4丁目 南麻布1丁目3番~24番、2丁目2番~8番・10番~13番 元麻布1丁目6番・7番」
なぜかすっきりしないですよね。

これは「学区域は各町会の区割り」で線引きされているからです。


昭和36年の東町小学校

歴史を振り返ってみましょう
東町小学校は 大正二年に開校しています。
       そして昭和二十一年に戦争で焼けて廃校となります。
       昭和三十年に新校舎が出来再開校しています。
この写真は昭和36年に撮影された、再開直後の様子です。


この時は各町会の線引きが学区域でした。


次に各町会の歴史を振り返ります

各町会の歴史を見ると
竹谷町 明治5年(1872)
新堀超 〃
山元町 明治2年(1869)
東町  〃
網代町 享保8年(1723)
ツイン一の橋 昭和33年 (1958)
に設立されています。
古川町会は「解散」しています。新一町会は「休会」となっています。

網代町会は江戸時代に芝の海辺から
現在の代替え地に幕府により引っ越しをさせられました。
よって「網町の代地」と言う事で網代となったようです。

古川町会は「白金・ザ・タワー」の完成により町会は解散となりました。

新一町会は商店や工場がマンションに建て替わり、住民数が少なくなり現在は「休会」と言う事になっています。

所が、昭和36年に「新住居法」というのが施行されます。
これは郵政省がダイレクトメールの増加に伴い、配達員の負担を無くすため、新しい街の区割りを行いました。
現在使われている「南麻布〇町目〇番〇号」と書くものです。
これで町会の区割りと新住居法の番地にずれが出来てしまいました。


町会の区割りは赤線で書いたように家と家の背中で境が出来ていました。向こう三軒両隣は同じ町会になる様に工夫されていました。
新住居法では緑の線、道路の真ん中で境が出来ています。(緑色の線)
「昔が良かった」とだけ言うつもりはありませんが、少しのずれが大きな問題になっているような気がします。

町会の区割り図

これを見るとほぼ現在の新住居表示と重なりますが「山元町会」だけは麻布山善福寺の裏、元麻布ヒルズまでが町内だったことが分かります。

秋の祭礼は町会ごとの神輿や山車が町内を巡行します。
ご自分の住んでいるところの町会名を確認しておいてください。

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