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フジロック

愛と平和というのは
愛やら、平和やら、そんなこと全く考えず
ただ自らの大切なもの、楽しめること、場所
それだけに集中した末に
実現するのかもしれない

7月29日快晴@苗場スキー場
この日フジロックフェスティバルに参加してきた
音楽好きとして一度は訪れてみたいと
望み続けていた音楽好きのための祭典

とうとうあの場所の土を踏んできた
土持って帰ろうか、とか行く前は少し考えていた
そんな阿呆な考えは顔を出す隙もなく
ひたすら幸せが充満した一日

フジロックに参加する理由、というのは
人それぞれ、参加者の数だけ理由と想い憧れがある

私がフジロックに憧れた理由
気になり続けた理由
行くまでに考え続けたが
おそらくoasisが日本でライブを行った最新の場所だから
2009年以降、彼らはバンドとしては
ライブを行っていない
だから
苗場は日本におけるoasisの歴史の最前線

さほど音楽好きでもない家に生まれた
当時中学生の私が苗場に行ける訳もなく
そもそも当時まだoasisに目覚める前の私が
会場に居ることはなかった

その私からみたら
oasisのフジロックでの公演は神話だ
他の公演も素晴らしいが
映像化された作品を見る限り
語り継がれるだけの
何かがあの公演には存在する
その跡地である会場は聖地だ

要するに私は聖地巡礼がしたいだけなのかもしれない、と
直前一週間前にはこの思考回路に辿り着いた
聖地巡礼を目標に定めると
会場に着いた瞬間に私の想いは果たされ目的が達成されるという
スマートコントラクト並みの速さで契約履行される状況を作り出し
着いた瞬間私の勝ちという条件を作り出すことで
フジに行く、という心理的ハードルを
和らげていただけの可能性も多分に含んでいるが
それでもやはりいつからか
直近でoasisがライブを行った会場を肌で感じたい
この想いはoasisのフジロック公演の存在を知った時から
どこかで抱いていたような気がする

どこかで抱いていた

これはどういうことか
願いは、望みは
掌の中で転がる玉の様に煌めいているにも関わらず
割れてしまうことを恐れるばかりで
投げることができない
そんな弱い自分を認めることができない
逃げ続けた自分の弱さ

oasis好きを公言するには
フジロックを訪れてなければいけない
そんな制約すら覚え始めた私にとり
行く計画すら立てたことがないという現状を
挑戦すら試みたことがないという惨状に
いつの間にか蓋をした

もちろんファンでいることにそんな条件は無い
真っ直ぐに好きなものを好きというだけで
その想いは全て尊それは大前提だ

けれども私は
フジロックに行ってみたい、という
単純な自分の願いを実行できないでいる
弱い自分を見つめることができないでいた
理由をつけて
行かない理由を探す
できない理由を探すというのは実に容易い
その視点に入り込んで仕舞えば
今思うと感心するほどに
すらすらすらすら
できない理由を織り出し始める
そんなことしている時間あるのならば
計画だけでも立ててみろ、という話なのだが
一番好きなアーティストは参加していないからと理由を掘り出して
その綺麗な玉私埋め続けた

一番好きなアーティストが出演しないなんて
活動再開できるような状況ではないのだから
当たり前なのだが
できない言い訳探しというのはどこからでも頭をもたげくる
だけれども言い訳している自分
というのは確実に記録されている
忘れたくても居ないことにはならない
思い出せなくても
水底に埋められた玉は
密やかに濁りを生み出し始める
その濁りが溜まり続けると
本当の自分の望みというものすら見えにくくなる
いつしかその存在すら忘れるまで沈んでいく

3年ぶりに海外アーティストも迎え
アルコール販売も復活
完全体での復活を遂げた日本を代表する音楽フェス
ラインナップはロックはもちろん
HIPHOPやEDMからも
国内外から気合いが伝わる
素晴らしいアーティストが揃えられた
それでも正直、今年のラインナップだけでは
これだけでは動くことはなかったかもしれない

それでも濁りの奥底にはまだ自分の願いが
直視できないからと
しめやかに隠されたひかりが
まだ手放せないでいたフジへの想いが
私の中に重さを放ち続けていてくれたから
一緒に目的地まで歩いて行ける仲間がいるなら、と

苗場の目的地で達成する想い願いはひとそれぞれある
けれど向かう方向は同じ
目的地も同じ
ただそれぞれのタイムテーブルが違うだけ

あの会場は何か一つが欠けては完成し得ない

演奏しているアーティストが必要なのはもちろん
演奏を支える運営スタッフ
参加する来場者を迎えてくれる地域のサポート
何より参加するあの何千人ものただの狂った音楽好きの人達

音楽が好き、好きなアーティストがいるから、
フジロックが好きだから
それだけの理由であそこに来られる人たち多分頭おかしい
何かにやられている
現代の日本に生まれてあそこまで過酷なライブ会場を経験すること他に無いのではないか
それでもあの場所に吸い寄せられる理由
今まで雑誌やインターネットの情報でしか
触れることが無い現地の空気を体感して
ようやく理解できた

あの場所は音楽という一つの媒体を通して
全てと繋がれる
会場のあらゆる全てと繋がることができるけれども
同時に全てと切り離されている

大自然の中で音楽と触れている瞬間
音楽と自分しか存在していない
曲はそれを表現するアーティストからも離れて
自分のもとに降りてくる
その瞬間は世界の中で音楽と対峙しているのは自分のみ
どれだけ自分の中から湧き上がる想いと向き合えるか
究極の自己対峙
それがあの空間では
どこまでもしつこく味わうことができる

自分と音楽だけの世界
それと同時に全ての参加者がつながる
音楽が好きという、ただそれだけが参加条件
音楽への想い
それさえあれば誰でも参加できる
逆にその想いがないと突き返される
働いているとか、働いてないとか
年齢とか、見た目とか
カテゴリ分けとかゴミのようなものは
そんな瑣末なことはもはやどうでもよくて
ただ音楽が好きでそこに立っているのかどうか
問われるのはその一点のみ
どこまでも優しく
かつ厳しい
とてもわかりやすい世界

それを突き詰めた先にある景色
会場に広がる幸福の色
他のものを何も気にせず
どれだけ音楽と自分、という世界に没頭できるのか
それしか考えていないという
おそらく現実世界に戻ると頭おかしいような人たちが
自分と向き合った結果
苗場の山に顕現した愛と平和の世界

いろんな場所で愛と平和が叫ばれているが
愛と平和の実現など主題に置かず
音楽だけの想いだけで運営されているフェスで実現されているのだから
案外、愛と平和の世界なんて簡単に実現するのだろう
難しく無いことを、難しいことに昇華させているだけなのかもしれない
斯くいう私も愛と平和なんてものは
もはやどうでもよくて
2年半ぶりのライブ
初めてのフェス
初めてのフジロックを経験してしまった今
次のライブに行くことしか考えていないのである

世界平和なんてみんなが自分の好きなことにだけ
没頭していれば
そのさきに実現される
それを確信した手前
自分にできることをするしか無いではないか
愛と平和から遠く離れて
誰もそんなこと考えていない世界においてのみ
世界平和は実現される
それを新潟の山奥で知ってしまった

音楽をメインテーマに据えたフジロックがその一つのモデルなのだ
大仰かもしれないが
2009年oasisがライブを行った最新の場所から帰ってきて
私はそうに違いないと確信している


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