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水と炎

そのものの輝きを放つには
比較対象になるものが必要なのではないか


5月、同じDAOに参加している仲間でもあり
こちらのコミュニティメンバーとして
ひたすらお世話になっている
tabinekoさんと
豊洲のTeam Labsに行ってきた

どの展示も凝っていて
写真の撮り甲斐のある部屋ばかりだ

その中でも私が一番気に入った
というよりも、今でも考えさせられているのが
この炎の映像作品だ

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
ニーチェ

この作品は他の作品に比べ
至ってシンプルで
炎の映像をひたすら鑑賞する
というもの

鯉の泳ぐ池の奥にあるこの炎
よく見ると炎が細かな線で表現されていている

鯉の泳ぐ池は膝下の辺りまで
水が満たされた空間でもあり
その水をかき分けた奥に炎が燃え盛っているという演出もまた面白い
同時に存在することは難しいこの二つの現象
難しいからこそ対になる存在
一方を思い出す時
強く対となる存在をまた同時に思い出す

課題を見つけ出す時
そもそも困難に向き合わなければならない
困難に向き合わなければならないのだから
そこに痛みが伴わない理由などなく
問題を見つめて、解くためには
痛みを味合わい尽くすことが条件になる

水に触れたい、と望むのであれば
まず炎の激しさ、熱さ、残酷さに対峙しなければ
その先へとは進めない
清らかな水を口にするためには
それ相応の対価を求められる


問題を問題と認識するにも技術というか
それ相応の訓練が必要になるらしい

清らかな川の流れの底に
実は汚い泥が敷き詰めらていても
流れが静かではわからない

一度全てをかき乱して
掻き上げて
暴れて
泣いて
叫んで
不安に打ちひしがれて
怖くて恐くて胸が潰れそうになるとしても
全ての泥を掻き出して
奥底にある
傷と真正面から向き合わなければならない

そうまでしないと問題というのは
認識することもできない

問題を見たくなければ
そのまま通り過ぎることもできる
電柱の張り紙や
街に描かれている落書き
通りで演奏しているミュージシャン
横目にただ通りすぎてしまえばそれまで

どうしてここまで息を切らしながら
自分の問題を見つめるために
必死に全力疾走しているのか

それでも見たい景色があるから
その足を止めたくない
ただそれだけ

川の流れの上流というのは
清く澄んでいて
何よりも気持ちが良いのは川の流れの冷たさ
ひんやりと厳しいようで
それでも優しさを含んだ冷たさに足を浸して
流れてはもう戻らない川の水を撫でながら見送る
毎瞬訪れる少しの寂寥
無言で語りかけてくる木々に見つめられながら
ただ時間が過ぎる柔らかな瑞々しくも
懐かしく旧い空間と時間

そこに行き着くためには
山を登らなければならない

私は今何合目だろうか
いや、まだ登り始めていない
絶賛登山準備中

用具は揃えた
準備は完璧なのだ
あと一つ足りないものがある
それを探している道半ば

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