旅の意義、前半

世の中で自分に最も近いのは、自分だけ。寂しいことは否定しがたいが、だからこそ、次にも向かうことができるのだろう。こんな感覚を抱かせる2作品だった。吉本ばななさんの「ミトンとふびん」に収録されている。

金沢を舞台とする一作目は、旅の様子が夢の中にいるかのように綴られている。金沢という土地が、自分が住んでいるところとは異質な空間になっている。そこであったことが、ぽっかりと浮いて独立しているのだ。主人公が訪問した2回とも、そこでの思い出が綺麗に縁取られているようでもなく、ふわふわと浮いた感覚にあるようだった。
筆者によって金沢という舞台が選ばれたのがなぜなのかは分からない。東京からある程度の距離がありつつも旅行に行きやすく、街がまとまっているからだろうか。しかし、何という偶然か、漠然とした印象を持った旅先として挙げるとするならば、私も迷わず金沢を選ぶ。

金沢には、記憶にある限りでは3回行ったことがある。
1回目は、大学オーケストラの演奏旅行で行った。石川県立音楽堂だったか、金沢駅からほど近い場所にあるホールで演奏会があった時だった。前日に新宿で22時ごろまでアルバイトがあり、終電に限りなく近い北陸新幹線で一気に金沢駅へ向かった。アルバイトといっても、英語の集団授業を高校生に対して行っていただけだったが、その日は、毎週の自分が担当する授業ではなく、他の先生が都合で休んだために、代行として入ったコマだった。そのクラスの生徒には、前の年に受け持った子が何人もいて、ふるさとに帰ったかのような錯覚を起こしつつ、授業もスイスイ進んでいった。授業後は、かつての生徒と面談をし、最近の様子を聞いたり、軽く質問に答えたりした。そんな高揚感に満たされながらアルバイト先の塾を出ると、スーツケースを引き、楽器を持ち、新宿の街を小走りで駅に向かった。金沢に着いてからは、一人で散歩をしたが、既に真夜中である。不思議な解放感に包まれていた。先程まで新宿にいたのが嘘みたいだった。ビルの高さも、人の密度も、空の見え方も違う。翌日は朝から演奏会のステージリハーサルだというのに、金沢駅から延々と歩いて、お城の方を回った覚えがある。周りより少しは明るい繁華街で、深夜でも営業していたたこ焼き屋に寄った。たこ焼きをひとパック買い、金沢駅まで戻ってきた。駅前のバスターミナルのベンチで、ビールを飲みつつ、それを食べた。演奏会は、無事に終わって、現地の観光も、先輩後輩たちと行ったような覚えがある。

2回目は、金沢大学にいた知り合いの出演する演奏会を聴きにいった時だったか。吹奏楽の演奏会で、確か日帰りだった気がする。その知り合いは、私の所属するオーケストラが東京で数週前に行った演奏会に来てくれて、金沢に私が行ったのも、そのお返し的な意味合いがあったと思う。

3回目は、何かの試験を受けるはずだったものが、申し込む時期が遅れ、金沢の会場で受けることになった時である。その時は前日、2回目の滞在で演奏会に伺ったのと同じ知り合いに金沢市内を案内してもらった。夕方には観光する場所もなくなり、駅前で映画を見たが、その後の夕飯は食べずにすぐ解散した。昼ごはんが意外と遅かったからかもしれない。しかもその時、なぜか自分たちは、同じ時間に上映されている別々の映画を見た。ただ、ホテルと家にそれぞれ帰ってから再び連絡を取っていると、やはりお腹が減ったということで意気投合し、何か食べに行くために、また会った。先ほどさようならと手を振った人と、またすぐに会うのは、少々恥ずかしい。けれども、妙なワクワク感があった。初めて金沢に来た時に、深夜一人で散歩した時のものと、似た解放感である。結果、その方がスバルの軽で金沢駅まで迎えにきてくれて、金沢大学の近くにある第七ギョーザの店に連れていってもらった。金沢の名物餃子である。この道をこっちに入って坂を登っていくと大学なんよ、と教えてくれた。たらふく食べた後、山の上のキャンパスに行って星空でも見ようかという話になったが、曇っていたためか、やめになったと思う。翌日の試験は適当に受けて東京に帰ってきた。

今は、その方とは全く連絡を取っておらず、何をしているかも知らない。上に書いた3回の訪問も、細かいところはうろ覚えで、霧とまでは言わずとも、靄がかかったような情景でしか思い出せない。金沢の街は、東京での自分の暮らしとは、あまりにも離れたところにあった。だからこそ旅先として最適なのかもしれないが、何年も経ってから振り返ると、あの瞬間は何だったのだろうと、思ってしまう。一人で宿泊先にいる時も、自分が用事で忙しいなら別だが、何もすることがないとなると、旅先の地に、ポツンと一人取り残されたような気分に陥るのである。

今の自分にとっては、金沢について、部外者としての視点でしか見ることはできない。今年の初めの地震で少し心がざわついたが、金沢は輪島から離れているだろうし、揺れは激しかっただろうけれども、被害はそれほど無いとニュースでやっていた。むしろ金沢には観光客が来てほしいくらいであるとも聞く。
テレビで見る金沢の街は、それがニュースであろうとグルメ番組であろうと、自分の知っている金沢とはいささかならず異なっている。テレビを通すと、現地で見た淡い色合いは見えないのだ。

二作目は、台湾での話である。主人公が新たな人生の起点に立つ話であるようにも見えたが、それよりも、それまでの人生とそれからの人生が連続的であることに気づき、本質的には同じ営みを続けていくということを再認識する話だと捉えた方がしっくり来た。
人が誰かと惹かれあって、付き合うまでに至る過程。川を使った例えが見事だったが、そんな風に上手くいくことなんてそうそう無いだろうとも思う。人の心にできた隙や穴に、絶妙なタイミングで、絶妙な強度で、入り込んでいく。お互いに冷静だったらできないだろう。それを可能にするのが、旅の雰囲気なのか。

旅行先で起きる出来事は、直接的には自分の日々の暮らしとはつながらない。その土地の暮らしを、外から来たものとして観察し、持って帰れるわけでもない雰囲気に浸る。旅先では、第三者の目線で見ている自分がいる。もっと没入したいとも思わないではないが、勝手が分からないことが、自分をそうはさせないのだ。ずっと浸っていたい気持ちもするが、それでは逆に淋しくなる。
その中で、一作目では少しばかりの記憶が主人公とその娘に残り、二作目ではパートナーができた。一作目では、日々の暮らしと旅先のことは独立していたが、二作目では、むしろ連続性ができたと言える。旅の意義は、いまだ私には分からない。


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