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安泰寺

0.はじめに

書けない。

なにが書けないって、言いにくいけど、エッセイです、、、はい。再来週までにと言われたときはまあ書けるか。明日から書こうかな。とか思ってた。
手につけてみると、
あれ、、、?書けない。???
書きたいことは山ほどある。
なのに書けない。

かけない理由を考えてみる。
Google documentだから?ゼミの課題だから?義務感強いから?
よくわからないがとりあえずnoteだったら書けるのでは、と思いnoteに書きなぐろーとなったのである。これで書けたらこれから全部noteで書こうかしら()

1.教育実習を引きずる

夏休み、PC画面と睨めっこして始まった。画面には学習指導要領と指導案。模擬授業は半年前に一度しかやっていないという不安を抱えながら8月下旬に中学校に出勤し始めた。あの4週間は激務だった。研究授業の反省会で泣いてボロボロになった。その次の日の予定は、8時半に函館空港に集合。安泰寺への旅路の始まりであった。

飛行機の上ではお礼状を書いていた。書き終わらなくてまた泣きたくなる。書き終わっても郵便局がない。しょうがない、と安泰寺に向かう道中でタクシーに寄り道してもらった。コンビニでレターパックを買い、投函。この件はご迷惑おかけしました。本当にごめんなさい。

久斗山に入る。目にみえる多湿。曲がりきれないヘアピン。車窓を撫でる植物の手。一体どんな生活が待っているのか、まだ見せてくれない。ワクワクと、ムズムズと、ちょっと帰りたい気持ちが混ざる。スマホの「圏外」がその気持ちを助長する。一瞬4Gを掴んだ。スマホが震える。ポップアップしてみると「打ち上げ来ない?」とお誘いが来ていた。そうだ、打ち上げしようって話してたんだ。「行きたいけど今兵庫だから行けないや。楽しんできて〜。」返信するとまた圏外に戻る。今だから言うけど、行きたかったーーー!!

2.到着、ソワソワ

安泰寺に到着。実感があるのかないのか。興奘さんと河村さんが迎えてくれた。安泰寺に着いたという事実だけ飲み込む。壁に立てかけてある看板には紫竹林安泰寺の文字。本当にそこでいいのか、というところにぽんと置かれている。
ああ、着いたんだ。来てしまったんだ。どうしよう。
どうしようも何も、ここで5泊6日過ごさなければいけない。とりあえずどこでも適応できるモードに入る。

部屋が連なる棟
晴れた日には、洗濯物を

部屋に通された。ナツさんと同じ部屋。ふすまを開けると机がふたつ、窓を向いてる。窓を開ける生い茂る緑。萌えるというよりも、茂る。この景色が好きだ。押し入れを開けると布団が1セット。それ以外は何もない。6畳ほどの狭い部屋なのに開放感さえあった。
安泰寺の個人部屋ってなんの役割があるんだろう?ふと疑問に思う。結局安泰寺で過ごす間はこの疑問も忘れてしまった。でも、誰かに聞かなくてもいい気がした。部屋は、部屋でいい。そこあるだけでいい。
ご飯に呼ばれ、外食堂へ。小魚の甘酢浸しが目に入る。小魚が出ることもあるのか。

3.いただきます、ごちそうさま、の代わりに

食事の作法が難しい。しゃべらない。音を立てない。「え、おいし!」とかうっかり言いそうになるも声帯の前で止める。箸先は自分に向けて置く。いつもとは違う向きに慣れない。センターディッシュを取るときは合掌する。間違いなく異文化だった!

食事の目的が違う。ナツさんに疑問をぶつけて気づいた。多くの人は食事の中のコミュニケーションを大事にするのに、どうしてここではしゃべってはいけないのか。彼らは、生きるために食事をし、すべての食材に感謝している。仕事や趣味の話をしていては目の前のものに100%の感謝はできないだろう。私たちは食事にコミュニケーションのクッション材みたいな役割をよく求めている。無言になったら食べればいい。これ美味しいねって話題になればいい。ただ、ここではそうじゃない。ひと口ひと噛み食むごとに「わたし」の一部となるその生命に、感謝する。それが帰命だと後に知った。

4.日々の、手仕事

作務。私は3日間の如常で稲刈り、ダム掃除をした。
1日のスケジュールの大部分を占めるのが作務。如常1日目は鎌で稲を刈り、稲の茎で縛った。蒸し風呂のような暑さ、立っているだけで汗が滲む。空気中の水蒸気も全身にまとわりつく。風はない。熱中症になるのが先か、休憩が先か。ただただ無言で暑さに耐え、過ぎる時間の遅さを恨みながら、食いしばる。
「休憩しましょうか」
あああ、待ってた!倒れ込むように日陰に入り、水を一口。全身にひんやりとした感触がめぐる。生き還る。
「ゴクッ」「ぷはぁ〜」「うんまっ!」
典座さんが持ってきてくれたカゴには、梅シロップソーダ、コーヒー、クッキーにフルーツもあった。いちじくも小さな桃も安泰寺で採れたもの。自然の恵を享受できる環境に幸福をおぼえた。自然と共存する暮らし、好きだなあ。

如常3日目の作務はダム掃除。2人の修行僧の方について行く。田んぼの横を下り、神社の急な階段を登り、さらに山を登ってダムへ。鹿が食べ尽くした斜面は湿った土の色。水分を含んだ土は滑る。斜面を横切ったとき、後ろの気配がなくなった。振り返ると、あやめちゃんが落ちかけている。「死ぬ…」というあやめちゃん。後から聞くと本当に死がよぎったらしい。助かってよかった…

掃除前のダム

ダムに着くと濁った大きな水たまりがあった。放流。濁流の水鉄砲が斜面を駆けていく。水嵩が減ってきたタイミングでダムの内部に入る。泥、木の枝、石、入り混じって水の中に隠れている。見つけ出して、ダムの向こうに放り投げた。石の入ったバケツは重い。バケツリレーの終わりが見えない。すると、木の枝がつっかえて泥水が流れなくなってしまった。バケツリレーに泥も加わる。絶望した。
堂頭さん「(つっかえてるもの)取れる?」
学生「いやあ、無理です」
堂頭さん「無理じゃないんだよ。やらないと。私たちの水だよ!」
その言葉にハッとした。手を止めてしまっては終わらない。
これ、キッチンで使う水なのか。今日掃除終わらずに帰ったら、典座の人は料理できないってこと!?
いやいやいや、それは困る。水がなければ料理も風呂もなくなる。責任重大さに一瞬顔が青ざめる。いや、青ざめてる余裕なんてないぞ、私たち。
私は5日間で去るけれど、安泰寺の人はここで生きている。山奥のダムと安泰寺のキッチン、暮らす人々の生命のつながりに気づき、稲妻のような衝撃が走った。暮らしをつくる、よりも生きるをつくってるんだな。

掃除後のダム
泥は洗い流され、石や枝も外に出された

5.『典座はみんなのお母さん』

「『典座はみんなのお母さん』誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで仕事をする。」
ある修行僧のさらっといった言葉が、脳裏に焼きついた。

私は3日間典座をやらせていただいた。如常1日目の夜にやりたいです、と手を挙げた。料理が好きで、こんなに大人数分の料理を作れるなんて絶対に楽しいと思ったから。典座が仕事を始めるのは3:45。みんなの起床時間でもある。振鈴がなったら朝食を作り始める。典座トレーニーは3:20頃に起き、布団を片付け、ストレッチや身支度をしているらしい。なるほど、ストレッチまでするのかと思いながら真似てみた。意外と25分間でできるし、何よりストレッチをすると眠気が飛んでスッキリした。

薪を無駄にしないようかまど1つで調理するために、優先順位と時間配分を考えながらつくること、ハーブガーデンからは必要な時に、必要分だけ収穫すること、あるもので料理すること。自然の恵を享受して、わたしたちの生命が保たれている。ああ、循環しているな、と感じた。「帰命」を感じ始めた第一歩。

「あなたのキッチンです」と言われたことがあった。
基本何でも「いい?」と聞いてしまう自分の性格もあって、典座をやっている時も「これ使っていいですか?」とよく聞いていた。その時に言われた言葉だ。ネルケ老師の「You create Antaiji.」が思い出されたが、そうであってほしいというささやかな期待は抱きながらも、わたしはそんな言葉をかけていただけるほどの人ではない。後日機会があったので聞いてみると、そうだった。数日間しか滞在しないわたし達に対等に接してくれていた。わたし達は修行僧ではないし、たまに気を抜いてしまうところがある。おそらく気づいているのではないかと思うが、それでも真っ直ぐに向き合ってくださるのは本当に嬉しかった。徐々に真剣さが増して、全力で禅と安泰寺と向き合えたのは、この言葉のおかげだろう。

6.ただ、坐る

ただ坐ること、こんなに難しいとは思わなかった。
考え事をしたり、脚の痛みに逃げ出したくなったり。でも、朝も夜も息をすること、じっくり「坐る」ひとつの行動をすることが心地よかった。
澄み切った空気に、肺から臓器が洗われていくような気持ちになった。身体と空気と同化する。鶏と鹿の鳴き声が頭を貫通する。

接心の日、初めて5時間坐禅した。
私の目の前には戸がある。そのシミがどんどん模様に見え、ついには毎時間その模様が変わり始めた。頭がおかしくなったような感覚。耐えるしかないのでただ耐える。その模様について考えてはいけない気がした。ただ見つめ、変わりゆく模様を眺めた。考えるのをやめるってこういうことなのか、と少し疑問が残りながらも思った。

外経行。本堂のまわりを歩き続けた。
これが好きだった。外経行は、接心の日の坐禅の1柱目と2柱目の間の時間に行われ、本堂のまわりを堂頭さんを先頭に歩き続けるもの(途中で抜けてお手洗いに行ってもOK)。ひたすらに歩く。それもかなり早歩き。叉手で、姿勢をまっすぐ保ちながら、足音を立てないように、間隔を保ちながら、サッサッと足早に歩く。考える暇もなくただただ歩くこの時間が、ものすごく有意義な気がした。いつもより気を張って歩いているはずなのに、リラックスできる。裸足で外気に包まれながら木造の床を歩く開放感に、人間でありながら自然の一部になれた気がした。

7.おわりに

書く時期が長くなり、場所も家、大学、コミュニティスペース、市電の中、と転々とした。そのため、文体が章によって異なるものとなってしまったことを謝罪したい。

たった今、遺書展にいる。生きゆく人の書いた遺書展である。
その中でラダックを訪問した方がその地域のサステナブルな暮らしについて話をする時間があった。その中で、宗教と暮らしがいかに密接な関係にあるかを語ってくれた。飼っているヤクを追いかけながらお経を読むなど、日常生活の一部に宗教が当たり前のように存在しているという。安泰寺も、毎日お経を読み、1日の始めと終わりに坐禅があり、どちらも日常ではあるが形骸化ではなく日常のエッセンスのようで、なんだか似ている気がした。
礼拝やお祈りは節目のような気がする、という話もした。日常に必ずその時間があるから、絶対にそのために一定の時間を使える。その時間があるおかげで、暮らしが引き締まったり、リズムを保ったりできる。坐禅や読経も、1日の始まりと終わりに「生」を感じたり、食事・作務・典座の際に帰命を体感したり、節目・エッセンスの役割もあるのだろうなと思った。

ありがとうございました。


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