2018.7.21

月光酒

 どうせ阿保の先輩のほら話だ。
 僕は心の中で悪態をつきながら、港にあるボロ小屋の陰に隠れていた。
 とうの昔に寂れただろう港町には、明かりがほとんどない。自転車でここに来るまでに、すれ違った人も車もなく、時々現れるこれまたボロボロの街灯をいくつか見ただけだった。
 こんなところで商売している人がいるわけ、ない。
 僕は人気のない、場所そのものが幽霊のような港で、先輩の言っていた「赤い光を放つ船」を待っていた。
 季節は夏。もうそれはひどい酷暑で、太陽が沈んでだいぶ時間が経つのに、蒸し暑い。慣れない磯臭さが、僕の気分を害する。
 小屋の陰からこっそりと海の方を見る。静かな海、船の姿はまったく見えない。
 半月が頭の上に登ろうとしている。
 これで一晩待って、船が来なかったら。僕が体調を崩したら。僕はきっと、先輩を殴る理由ができるだろう。


「月光酒という酒がある」
 前期テストも終わり、あと数時間で大学生活最後の夏休みが始まるという夜。僕は先輩に呼び出され、きったない狭いアパートにいた。
 すでに第3の発泡酒で酔っているコスパのいい先輩は、缶チューハイで酔いつぶれた僕の知らない人をばんばん叩きながら言った。
「はあ」
 僕はできれば早く帰って、履歴書を書きたかった。まもなくエントリーシートの締め切りがやってくる。
「その酒を、お前にも飲ませたいと思って」
「はあ」
 そんなの嘘だ。この先輩が僕を想ってどうこう計らうはずなど、無い。どうせ自分が飲みたいだけだ。
「でもそれが入手困難でな」
「はあ。僕、日本酒は飲めないんですが」
「日本酒じゃない」
「焼酎ですか」
「知らん」
「僕、そんなにお酒に詳しいわけじゃないんですが、それ、何ですか」
「知らん、わからん」
 知らんものを飲ませようとしていたんですか。いや、もう絶対この人は自分の好奇心と思い付きと僕を困らせたい一心でしか話をしていない。
「で、だ。といっても俺も飲んだことがないから、味見をしなくちゃいけないだろう」
 ほら、やっぱり。
「しかしそれは、市場に出回っていないらしい」
「はあ」
「でもな、こいつが言うには」
 先輩は酔いつぶれた知らない人を、さらに強く叩く。うっ、といううめき声と一緒に、口から何か白い粘液みたいなものが出ている。僕は目をそらす。呼吸もなるべく回数を減らす。
「上弦の月の日に、闇市で手に入るんだと」
「はあ」
「闇市だぞ、闇市」
「そういう比喩の何か、飲み屋とかですか」
「バカ、まじめに俺は話してるんだ。裏取引だよぉ、法的にアウトなやつだよぉ」
 もう嫌だ。部屋の空気が物質的にアウトだ。何かしらが、目に染みる。
「窓を見ろ」
 涙目のまま、窓を見る。半月が見えていた。
「上弦の月が天頂に上る手前に、赤い光を放つ船が着く。その船に月光酒が積まれていてな、闇市に運ばれていくらしい。そこをな、あれだ。どーん、と」
「はあ?」
「だからあれだ。俺が言いたいのはだな、お前、その月光酒を持ってこいってことだ」
「はあ。船から荷下ろししてる時に、買ってこいってことですか」
「まあ、惜しいな」
「はあ」
「俺らには、金がない」
「知ってます」
「酒は買えない」
「はあ」
「盗ってくるしかないだろう」
「バカか」
「あ?」
「あ、いや、なんでもないです。はい。でも僕、いま就活してるし、その影響出るようなことしたくないんですよね。それって泥棒じゃないですか、法的にアウトすぎますよ」
「お前、もう4年生か」
「はい。先輩はまだ、2年生ですよね」
 先輩の目がこちらを向く。アブナイ人の目だ。
「じゃあ大学生活最後の思い出だ、さっさと行け」
「いやですよ」
「いいから」
「でも僕、履歴書が」
「行けよ! 行けったらぁ!!」


 先輩は泥酔すると僕をいじめる。僕も長い付き合いなので、適当にいなしたり拒否をすると、最後には泣かれる。
 どうせあと1年もしないうちに先輩との付き合いは終わるのだから。その月光酒というものも、闇市だかなんだか知らないけれど、手に入らなかったり本当に法的にアウトなものであれば諦めればいい。きっと持って帰らなくても、先輩は酔っていたのだし忘れてくれるだろう。
 蒸し暑さは変わらない。磯臭さも不快だが、先輩の部屋よりかはだいぶマシだ。それより先輩の家で正座していたからか、ハーフパンツから先輩の家の悪臭がする。
 腕時計を見ると、丑三つ時。空の低いところがぼんやりと明るくなってきた。
 本当に船なんて来るのか。明るくなってきたら、悪いことしづらいんじゃないか。僕は若干の違和感を感じながら、再び海をのぞく。
「あ……」
 きた。
 小さな漁船のような船が、ぼとぼととエンジンの音を連れてやってくる。ぼんやりと、赤い光を放ちながら。
 僕の心拍数は跳ね上がった。本当に来たのだ。先輩が言ったことは本当だったのか?
 しかしあれが月光酒の船とは限らない。密入国者かもしれない。だとしたら、僕は命の危険もありうる。
 徐々に近づいてくる船。よくよく見ると、赤い光は電灯のようだ。船の上には人影も見える。
 船着き場らしき場所で船は静かに止まる。じゃぶじゃぶ、と水が跳ね返る音。その中に混じって、木箱が動かされる音、瓶のようなものがこすれ合うような音が聞こえる。
「おぉい」
 低く押し殺したような、男の声がする。僕は息を殺し、小屋の陰から聞き耳を立てる。吹き出た汗が冷えていくのを感じる。
「丁寧に扱ってくれよ。爆発したらひとたまりもない」
「わかってるよ」
 もう一人の男が応える。
 爆発?
 不審な言葉に呼吸を詰まらせていると、遠くからエンジンの音が聞こえた。船のものじゃない。僕が自転車できた車道の方を見ると、無灯火の軽トラがやってきた。
 姿勢を低くして、軽トラから見えないようにする。軽トラは全く僕に気付く素振りもなく、船のすぐ隣で止まった。運転席から大きな影が現れる。
「よう、久しぶりだなあ、だんな」
「あまり話している時間はない。さっさと運ぶぞ」
「どうしたんだ」
「さっき、道に自転車があった。昨日はなかった」
 自分の自転車のことを思い出す。なるべく目立たないところに置いたはずなのに。
「誰か死にに来たかぁ?」
「誰かいるのかもしれない」
 僕はさらに呼吸を殺す。さあ早く、と軽トラの男が言った。
 船から出てきた男二人は、ごとごとと木箱を軽トラに積んでいく。
「おい待て」
 軽トラの男だろうか、一人の肩を掴んでぼそぼそと何かを話す。
「疑い深いねえ。毎度のことだろうが」
 肩を掴まれた男は小箱を地面におろし、蓋を開けた。
 ぼんやりと、青白い光が漏れる。ふっと鼻先を、上品なアルコールの匂いが通る。
「月光酒でさ」
 僕の耳は、しっかりとその言葉を聞いた。
「ふむ。良い出来だ」
「今回の満月は、最遠だったろ。だからいつも以上に丁寧にあつかったもんでさ」
「いい匂いだ」
「おうおう、そうだろう。満月の日にちゃあんと蓋したからよ。次の新月には飲み頃になるだろう」
 ふと空を見上げると、半月は天頂へ上り、東の空が白み始めてきた。
「楽しみだ」
 そういうと男は再び木箱を軽トラに積み始めた。
 あれが月光酒。先輩の話は本当だったのか。確かにいい匂いのお酒で、男たちの話を聞いていても結構な出来なのだろう。
 でもあの怪しさは、本当に法的にアウトなものなのかもしれない。確か個人で造酒することが既にアウトだったのでは。
 ならば僕も危険なのは、変わらないだろう。就活に影響するどころか、残りの大学生活も今後の人生も命も惜しい。先輩には悪いけど、何もなかったと嘘をつこう。じゃなきゃ、自分で行ってくれと。
 軽トラに見つかってしまった自転車のことを思い出す。これは男たちが解散するまで、ここに隠れていたほうがいい……。
 びゅう、と突然の風が吹いた。遠くでガシャン、と音がする。自転車が倒れた音か――
「あ……へっくしゅん」
 甲高い、情けない声に時間が止まった。
「誰だ!」
 野太い男の声がする。ああ、しまったもう終わりだ。心臓が壊れんばかりに収縮する。もうだめだ、このまま海に沈められるんだ。
「おい、待ちなさいな」
「いや、誰かいる。あんな情けないくしゃみ、俺らがするわけないだろう」
 それはひどい言い草だ。どうする、このまま小屋の陰で隠れ続けられるか。いや、無理だ。よくわからないけれどきっと無理だ。車道の向こう、倒れてしまった自転車を思い返す。
 このまま走って自転車で逃げれば、きっと無事に帰ることができるのでは。
「何者だ、出てこい」
 男たちに背を向け、僕は立ち上がった。
「ご、ごめんなさい! その、悪いことするつもりではなかったんです!」
 言葉になったかならないかも分からないまま、僕は自転車目掛けて走った。つもりだった。
 途端、おぼつかない足元。目の前に地面。そのまま僕は手をついて、倒れこむ。右頬を地面に打ち付ける。
 転んだのだった。
「なんだ、あいつ」
 ああ、本当に情けない。生まれてからずっとそうだった気がする。どんくさい、何しても中途半端。だからあんな先輩に4年間もいびられ続けるんだ。とっくに僕の方が上級生だというのに。
 死んだら化けて出てやる。
「おい、大丈夫か」
 おそるおそる目を開けると、白んだ空が見える。ひょい、と視界に、いかつい男の顔が入ってくる。
「ご、ごめんなさい……その、あの、こ、殺さないで……」
 返事はない。転んで打ち付けたところ以外、痛みもない。
「俺らは人殺しはしない」
「え……」
「ぼうず、いつからここに居たんだ」
 軽トラの男が言う。
「1時間、くらい、まえから……」
「なんのために」
 船の男2人も加わり、僕を囲む。
「せんぱい、が、げっこうしゅ、もらってこいって」
 先輩が、というのが僕にとっては大事なキーワードだった。
 船の男が1人、軽トラの荷台を指す。
「月光酒ぅ? あの酒のことか」
「は、はい」
「なんだって其のこと知ってるんだ、お前の先輩ってのは」
「いや、僕、突然呼び出されて先輩に言われたんで……泥棒しようとか、そんなのはなくて」
「おい、ぼうず」
「ひっ」
「俺らは人殺しはしねえぞ」
「ひぃ……ごめんなさ……」
 よくよく見ると、男3人は何とも不思議な恰好をしている。
 軽トラから出てきた男はガタイも良く、頭にハチマキ。船から出てきたうち1人はひょろっとしていて、目がぎょろぎょろしている。そして手ぬぐいを頭に巻いている。もう一人はむすっとした顔で、浅黒く、いかにも海の男風だ。そして3人とも、あまりきれいとも言えない、着物を着ているのだった。
 これは着物? 浴衣?
 3人とも裾をたくし上げていて、軽トラの男にいたってはレギンスみたいなのが見えている。ああ、これステテコってやつか。アニメで見たような……。
 アンダーグラウンドな商売をしている人は、そんな恰好をしているのだろうか。ドラマや映画でみるヤクザとかチンピラみたいな姿を想像していた僕は、まじまじと3人を見てしまった。
「まあまあ、なんかこのぼうず可哀想じゃあねえか。いじめられたんだろうや」
 手ぬぐいの男が言う。
「しかしこいつの存在が分かっているのは、まずいだろう」
 軽トラの男がいう。腕組をした海の男が、僕の顔をにらみながらいう。
「しかし海に沈めるのも、このまま拉致するのも面倒だぜ」
「ひっ」
「おいおい、驚かすなんて可哀想だ。なんだ、じゃあ、こうしようじゃないか」
 手ぬぐいの男がその場を離れ、軽トラから一本、透明の瓶を持ち出す。
「おいおい」
 その瓶は、朝焼けの始まった空の青白さと同じくらい、それ以上に青白く美しく輝いて見えた。何のラベルもついていない。おそらく無色透明の瓶と、その中身。
 海風にのってあのアルコールの匂いが僕の鼻を通る。
「月光酒……?」
 手ぬぐいの男がにたりと笑う。
「そうさ。俺が作った酒さ。名をつけた覚えがないが、巷ではそう呼ばれているのかもしらん」
 軽トラの男を見る。
「俺は知らんぞ」
 手ぬぐいの男が、その瓶を僕の目の前に出す。
「さあさ、可哀想なぼうず。一本持ってくがいい」
「え……」
「こないだの満月はみたかい」
「え、あ、はい。大学の帰りに……」
「いつもより小さかったろ」
 僕は瓶を両手で受け取る。正直、満月のサイズなんてわからない。
「今回は少ない月の光で、丹精込めて作ったんだ。きっと今年一番の出来だろう。しっかり味わえよ」
 軽トラの男が、フン、と鼻でわらう。
「あ、ありがとうございます……」
 透明の瓶の中。また陽の光が差し込んでいないのに、光を放ったように見える。青白く、冷たく。
「月の光を閉じ込めてんだ。きれいだろう」
「は、はい」
「ただ、扱いには気をつけろよ」
「あ、だ、誰にも言いません」
「そりゃあもちろんだけどよ、ぼうずが持って帰る間に爆発するかもしれねえ」
「え」
 瓶を持つ手に力が入る。けけけ、と手ぬぐいの男が笑う。
「そいつあ、ニトロみたいなもんさ。月の光なんてもん、ため込んでんだからな。ちょっとした衝撃で、どかんといっちまう」
 ニトロ?
 大学でそんなもの、習っただろうか。今までの人生で扱うことがあっただろうか。僕はその正体を知らないが、何かとんでもないものを持っているということが分かった。
「ま、ぼうずが丁寧に持ってかえりゃ、ちゃあんと飲めるだろうよ」
「は、はい」
 男たちは水平線の向こうを見る。
 東の空は、だんだんと明るくなってくる。
「さあ、そろそろ仕事せなあ、な。日に当たると酒の質が落ちちまう」
 軽トラの男がそう言い、軽トラへと戻る。海の男もその後に続く。
「ま、次はちゃんと金用意しときな。次の新月の日から、酒屋に並んでるだろう。数が少ないから、運良ければ買えるさ」
「あ、ありがとうございます……」
 いまだに座り込んでいる僕にはもう目もくれず、男たちは木箱を積み上げる。軽トラの男が丁寧にホロをかける。
 軽トラは男を乗せて、重そうに走っていく。船の男たちも再び、海へと戻っていく。
 船が遠ざかっていくのを見て、僕は瓶を抱えて立ち上がる。海の向こうからは朝日が差してきた。
 僕はまだ、違和感を感じながら男たちを見送る。
 帰らなくては。
 来た道を戻り、車道へと出ようとしたときに、急ブレーキの音が響く。
「なんだお前らは」
 先ほどの軽トラの男の声が、あたりに響く。
「やめろ、そんな扱いをしたら危険だ!」
 様子を見に行こうと、僕が走り出した途端。
 あたり一面を、白く眩しい光が覆いつくす。僕は咄嗟に目をつぶり、光を避ける。
 直後に、無音のまま衝撃波がくる。僕は瓶を抱えたまま、尻もちをつく。熱風が肌を焼く。腕の中の瓶は、ひたすらに冷たい。
 おそるおそる目を開ける。あたりは、しんと静まり返っている。軽トラのエンジンの音もしない。男の声も。熱風が来たが、爆発したような様子でもない。
 爆発? もしかして。
 自転車を止めたところを目指し、車道に出る。
 自転車は蔦や雑草が生い茂った中に隠してあり、倒れてもなかった。あれ、じゃあさっきの、自転車が倒れたような音は。
 瓶に衝撃を与えないようにゆっくりと籠の中に入れ、自転車を漕がずに手で押す。
 しばらく来た道を戻ると、ボロボロの自転車が2台、車道のど真ん中に倒れていた。
「これ……」
 確かに先輩の自転車だった。というか、元々は僕の自転車だ。先輩に借りパクされていた、自転車。見間違えるはずない。
「先輩?」
 あたりを見渡すが、先輩の姿はない。
 トロトロとエンジンの音がする。僕に背を向けて走る、ホロのかかった軽トラが見えた。
 軽トラはどんどん遠ざかっていく。
 籠の中の月光酒に、朝日が入り込んだ。
 日に当たると質が悪くなる。
 そんな言葉を思い出して、僕は来ていたTシャツで瓶を包んだ。
 そして強い衝撃を与えないように、与えないように、と急いで家路に向かった。


 どうせ阿保のほら話、と思ってくれればいい。
 南向きのベランダには、始まったばかりの夜、街明かりが煌々と入り込む。住宅街、でも静かにしていれば、近所の生活音やすぐ隣の国道を走る大型トラックのエンジンも、せわしないパトカーのサイレンも聞こえる。
 僕はベランダから、正しい上弦の月を西の山の向こうに見送りながら、第3の発泡酒を飲んでいた。
 今回の満月は、今年最大の満月だとニュースで言っていた。
 最大の満月、となると、どれだけ良質な酒になるんだろうか。きっと上品でいい匂いがして、そしてとんでもないエネルギーを持っているんだろう。
 発泡酒が空になる。ふと、殴ることのできなかった人を思い出す。
 生暖かい南風に磯の臭いを探すが、見当たらない。
 次の新月の日、近所の酒屋を見て回ろう。
 僕はネクタイをゆるめた。


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