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2018.8.2 わたしの個体距離


 個体同士で一定の空間や距離を保つ「非接触動物」と呼ばれる動物がいる。鹿とか。
 けれど個体だけでは捕食者から身を守ることが出来ないので、集団をつくって生活をする。そのなかで、それぞれの個体がとる空間や距離のことを「個体距離」という。個体によって心地よい、ストレスを感じない空間。
 人間ならどうだろう。人間だって動物だから、個体距離があるはずだ。


 満員電車の中で、私は考える。
 8月の平日、普段なら乗車数の少ない電車の中は、制服の高校生だらけだった。高校生向けの何かイベントや集会があるのだろうか。特急電車の遅れで普通電車も遅れて、電車2本分の乗客が乗り込んだからかもしれない。
 優先席の前に私は立つ。リュックを抱きしめながら、もう一本早い電車に乗ればこんなことにならなかったかもしれないと後悔している。4人は座れるはずの優先席では、健常者に見える大人3人がゆうゆうと座っていた。後ろには女子高校生の集団がいる。吊革につかまれない高校生が3人ほどいるらしく、電車が揺れるたびに、きゃあきゃあとにぎやかな声が聞こえる。
 冷房が効きすぎている。吊革につかまった右手が、だんだんと冷えていく。
 あと1時間早く家を出ていれば。私の後悔は押しとどまることを知らない。

 私には私の個体距離がある。
 社会学的には、片手を伸ばした範囲から両腕を伸ばした範囲までのことを言うらしい。要は何かあった時にすぐ身を守ったり、攻撃できる距離。
 いつの日かその個体距離は自然と私に備わり、他人との距離を測るための重要なものになっていた。
 この物理的な距離感はもとより、心理的な距離感に私は敏感だ。
 どこまで話したら、どれだけの時間を一緒に過ごしたら、「友達」から「親友」になるのか。
何がきっかけで「親友」から「知り合い」に戻ってしまうのか。
 昔から、なんの理由もなしにベタベタと触ってくる、ハグを求めてくる女友達がとても嫌だった。潔癖だというわけではなく、なにかの圧力をそこに感じていた。
「このハグを拒否したら、友情関係にヒビがはいるよね?」
「親友だから、同じ悩みとして聞いて、一緒に涙を流してくれるよね?」
 そんな脅迫を感じていた。
 しょせん、どう頑張ったって私は彼女たちとは違う個体で、生まれも育ちも環境がまったく同じではないのだから、完全に理解することは出来ない。なにもかもを共有することはできない。そんな風に心の奥で思い、隠し続けてきた。私の個体距離を、ごまかし続けてきた。
 その結果がこれだ。人込みや集団の中で緊張してしまう。人とうまくしゃべれない。

「きゃあ」
 私の背中に、女子高生の背中があたる。まもなく駅のホームに電車が入ろうとしたとき、電車が大きく揺れたのだった。
 冷房で冷えた私の背中に、女子高生の生暖かさが押し付けられる。
 後ろでは数人の笑い声。
「ちゃんと立ってなよ」
「マジ、人生で一番揺れた」
「つかまってないからだよ、迷惑じゃん」
「だってつかまるところ、ないんだもん」
「だからって人のカバンつかまないでよ」
「重いんだけど」
 がたん、再び揺れると、また同じ会話が繰り返される。
 私の隣に立つOL風の人は、白い目で後ろをにらみつけているように見えた。
「やだ、もう、電車きらい」
 私はおなか側に持ってきたリュックを、ひたすらに抱えていることしかできなかった。終点まであと少し。目をつぶって、そのアナウンスを待つ。
 あと1時間、早く出ていれば。
 電車がホームの中に入ると、窓の外は暗くなる。リュックを抱えたまま、体を少しだけ出口の方へと向ける。
「だから、もうちゃんと立ってなってば」
「だってえ」
 女子高校生は相変わらず話をしている。
 ドアが開いたらすぐに出よう。そしてちょっと深呼吸して、待合室で気持ちが落ち着くのを待とう。落ち着いたら改札を出て、目的地に行こう。なるべく日陰を通って。
 ホームにはすでに人が並んでいた。予定時刻より11分遅れて終着駅についたこの電車は、このまま折り返して出発するらしい。電車を待つホームの人たちにすら、私の心臓は反応する。
 ドアが開いて、人の波に乗るようにして電車を降りる。若干足取りがおぼつかない私は、なるべく邪魔にならないようにと、波を外れる。
 呼吸を落ちつけよう。そう思ってホームの壁によりかかると、さっきの女子高校生たちが見えた。
「待ってぇ」
「ちゃんとついておいでよ」
「混んでるんだもん」
「ちょっと、足踏んだ、今!」
「ごめんー」
 人の波の中を、ほとんどくっついて歩く彼女たち。その距離は15センチ以内で、「密接距離」になる。この密接距離になると、においや体温、息遣い、腿や腕が触れ合う距離になる。かなり近い距離なので、親密な関係でないと取れない距離だ。
 とてもじゃないけど、私にはできない距離。
 ぼんやりとそれを見送って、人の波が薄くなるとともに私の呼吸も落ち着いてくる。私はゆっくりと、歩き出して改札を目指す。
 目的地は大したことない。2週間に1度通う図書館だ。
 待合室には寄らずに改札を出て、日陰をたどってバス乗り場へ。図書館と公共施設と駅を往復するバスに乗り込む。
 今日は何かあったんだろうか。夏休み中なのに、制服姿の高校生が多い。バスの中も電車と同様。
 肩寄せ合ってスマホの画面を見ている。これも密接距離。
 私は2人がけの席で窓側に詰めて座る。隣には誰も座っていないけれど、後ろのおばさんを気にして背もたれによりかかることができない。私の個体距離。
 同じ制服、同じ着くずし方、同じ鞄。同じ鞄には似たようなキャラクターのぬいぐるみがついている。
「そういえば今度の模試なんだけどさ、部活のみんなで勉強会しようって話したじゃん」
「ああ、したね」
「どうする? いく?」
「私、行きたくないなあ。1人で勉強した方が集中できるし、みんな集まるとうるさいじゃん……」
「私もそう思う。特にうるさいのが2人いるしねぇ」
「でも行かないと、あとあとメンドウだろうなあ」
「じゃあさ、2人で勉強する? 図書館だとバレるから、別のとこで」
 静かなバスの中、冷房の音と一緒に、彼女たちのお話は私に届く。
 私は思い出す。彼女たちのように、密接距離をとることが出来なかった学生時代のこと。彼女たちのように、肩寄せ合える仲間と同じキャラクターのぬいぐるみを鞄につけられなかったこと。いつもは仲の良い集団なのに、そこから離れて集団のことを好き勝手言いあえる時間を過ごせなかったこと。
 私は目を閉じる。
 学校はきゅうくつだった。教室で手を伸ばせばすぐ隣の子に触れられて、体育館に並べば目の前の子のうなじが見える。後ろの子の視線を感じる。わき腹を、つつかれる。休み時間は膝の上に同い年の女の子が乗り、お互いの髪を触りあう。手を引かれ、お手洗いに連れていかれる。
「でも断ったらどうなるか、わかるでしょ?」
 ハッと目を開ける。変わらないバスの風景。
 そうだね、と隣の女の子が相槌を打つ。私は目を閉じて、図書館に着くのを待つ。

 私の個体距離。人より広い距離が必要なのか。
 いつまでたっても安心できない。
 密接距離は、私の小さな最低限の防御範囲。いつかそれを許せる人間関係ができるのだろうか。
 本当は、彼女たちの個体距離や密接距離を羨んでいるのかもしれない。
 同じ制服を同じように着くずして、同じ髪型にして。同じ鞄にキャラクターものをつけて歩き、肩を寄せてバスを待って。時々意味もなく手をつないで、同じ歌を歌ったりして。同じ敵を作って、同じ言葉で貶めたりして。
 そうして集団をつくって、他の集団との社会距離をとる。そうすることで、自分の集団内の結束を強める。
 でも私にはきっとそれ、できないな。
 
「なにそれ、やばいじゃん」
 同じスマホ画面を見て笑う女子高生。
 私は、見えない泡のなかで膝を抱える。




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