発達障害日記0410(民俗学と漫画の話)

 文系の脳内多動型発達障害者、本を読むのが大好き!!というか耳からだと全部抜けていくから本が安心!こんな発達障害ぶりをチラ見せ、発達障害日記です。今日は民俗学と漫画の話。

・漫画で学ぶ!感情の機微!!

 ええっとですね・・・
 わたし、漫画をめっちゃくちゃ読むんですヨ。雑誌は月にざっくり30誌くらい。単行本も気になったものを月に10~20冊くらい読みます。好きなんですよね。
 これ、脳内多動で「小説だと行間を読みすぎて疲れる」・・・ええと、「30代くらいの女性」という一文があったとして、そしたらもう大変です、30代って前半?後半?背格好?服?髪の長さ?というかホントに女性?・・・・とかって、いやその情報は後からゆっくり出てくるから今考えなくてもいいんやでーーーー!!!っていうのに引っかかって1ページ読むのも一苦労なんですよ。ぜえぜえ。
 漫画はその点、イメージが固定してますからラクなんです。その先の広がりも楽しめますし、まずはページをめくることができるっていうね・・・
 で、小説や漫画という大衆アートについて、わたしはわたしが苦手とする「感情の機微」や「常識」を学ぶものとしても使っていまして。いえ、これは結構変な使い方だと思いますけど。

・その源泉はきっと民俗学


 漫画の表現って、ある意味で集合意識というか、大きな市場経済で流通するアートとしての研磨された感情表現を持っていると思って。
 平たい話、「30代女性向け女性漫画誌」に掲載されているマンガって、やっぱりターゲットのことを想定して描かれていると思うんですよね。ちょっとここでは「いや、ほかの属性にもがっつり刺さった!」という部分に関しては除外させていただくんですが。30代以降の男性を対象とした講談社の『モーニング』に『きのう何食べた?』が掲載されている例とか。あれどうやって編集会議通したんだろう。
 閑話休題。
 まあそういうわけで、ある程度の幅があるとしても、その雑誌の大枠のターゲットに沿うリテラシーや知識範囲、そして常識を下敷きに描かれていると思うんですよ。マンガって。
 ということは、マンガの持つカタルシスは、ある程度と範囲は限定しても、その層から自然に沸き上がる、コミュニティの中の常識を備えているんじゃないかな・・・と思うわけです。
 民俗学・・・というか、鶴見俊輔の『限界芸術論』の話を連想します。その集団の生活から自然と沸き上がる表現。それは明文化されない集団の合意を見ることができるんじゃないかと。


・その細いテザーを頼りに歩いていく。


 今日は観念的な話になりましたねえ・・・
 いえ、わたしのよーな脳内多動型の発達障害者には、「世の中の常識」というものを慮ることが難しいんですよ。「このへんが妥当なところだろう」という、一般常識を踏み越えていくことを得意としております。というかその先まで行っちゃうんですよ。SF作家ならいざ知らず、普通の生活をしていると本当に過剰な特性でしてね。
 なので、マンガの登場人物がびっくりしたり、たしなめられたり、恐れたりするところ、それを見て「ホウ、こういうキャラクターのリテラシーがリアル読者には共感されるのだな」ということを類推したりしています。マンガというか、そのマンガの感想を見て常識を確認する感じです。
 ただ自分をそれに合わせるかと言われればそんなでもなく、参考にするだけです。そういう演技は10代の頃にやり尽くして諦めています。「こういう時には涙を流すものらしいので頑張って泣いてみる」とかってやってみたこともありましたけど、やれないもんを頑張っても仕方ないですからね。でも、ほかのヒトってどう考えるのかなあ?という類推の材料として。

 ところで「テザー」と言う言い方、これは今年のマンガ大賞を受賞した『君と宇宙を歩くために』で出てくることばです。(たぶん)2004年、発達障害者支援法がまだない時代の、ASDとADHD(&LD)の少年二人が歩く宇宙のように心もとない世界と、そういうの関係なく紡がれる信頼のマンガ。すごくいいマンガなんでオススメですヨ。

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