SNSの「公」を考える

 今や一国の選挙結果をSNSが左右する時代、一つの発言が傾国につながることもあるのだ。それが一つの社会的共同体の中の話であれば、より日常に近い次元で大きな影響力を持つと思う。

 何が言いたいのかというと

「少なくともTwitter(現X。以下Twitter)は、見られていることを前提として使おうよ」

 である。

 こう考える理由について、あえて棘が立つ言い方をすると、「その発言、他の人に見られたときにどう捉えられるか考えたことある? 何かあったとき、責任を取れる?」と言いたくなるツイート(現ポスト。以下ツイート)を時々見かけるからだ。
 ツイートが自分に向けた発言なら、発言の対象は自分なので、自分自身で責任を取れる範囲だし、そのツイートで不快に感じる人がいても、それは個人の感想の域を出ない。
 僕個人の意見を言うなら、「自分自身のことであるならなおのこと、あまりにも人を不快にさせることは言わない方がいいんじゃないかな」と述べる。
 ただ一応、日本には表現の自由とか言論の自由というものがあるので(用法が合っているのかはわからないけれども)、それ以上は強く言えない。
 もちろん、明確な害意があったり、なんらかの被害がでれば別であると考えるが。

 では友人について述べたらどうだろう。サークルは? 学科は? 学部は? 主語が大きくなればなるほど、発言の対象になる人が増えていく。
 大きな主語で私見をツイートしたとして、その内容を見た人が不快に思ったり、混乱したりして不利益を被ったとき、それは責任をとれる次元の話になるのだろうか。


 ツイートの責任問題に関しては、少し前までの自分も浅はかだったなと思う。ちょっと前までは、思ったことをすぐ口にして、言った言葉が人にどう思われるのかを軽視していた。
 僕の中でいくつか象徴的な出来事があって(これを明示すると、僕の大学生活に支障をきたすのでしないが)、今は自身のおこなうツイートに対して

  • いつ見るのか

  • 誰が見るのか

  • そのツイートを肯定的/否定的に見る人はどう捉えるのか

  • そのツイートによってもたらされる利益/不利益は何か

  • そのツイートで述べられていないことを考えた時に、どう捉えらるか

を考えるようにはしている。
 しかしそれでも、未だに友人や先輩から「この発言はよくないんじゃない」と言われる。
 それを伝えられる度に、自分の発言の不用心さを痛感するし、Twitterに対しての自己のハードルが上がっていく。

 例えば、この文章を読んでいるあなたは何かを素晴らしいと言うときに、別の何かを貶めることで、素晴らしさを伝えていないだろうか。あなたは別の何かを貶めたいかもしれないが、別の何かが好きな人にとっては、それは傷つくことだろう。

 先ほどと同じ理由で、具体的な事例を述べることはしないが、どうかぜひ、あなたのツイートは他の誰かの迷惑や不利益、恐怖心を煽るものになっていないかを考えてほしいと思う。 
 そして、その文章を「再読する(校閲だとか修正だとか推敲とかをお願いするつもりはない)」癖をつけてみてはいただけないだろうか。

 この文章を読んで、もし気に入った人がいたら、当リンクやリンクを貼ったツイートを拡散してくれると嬉しい。
 意外と真面目に書いているので。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?