弱気さとスピッツ
「弱気な人」って?
「弱気な人になりたい。」
「え?どういうこと?」
〜〜〜
場面は今年の8月、琵琶湖を歩いて一周していた時に遡る。
一日目の夜、すでに40キロぐらい歩いてて、ヘトヘトになってた。
そんな時でも夜になると人は考え事をするもので(意外と元気)、
「どんな人になりたい?」とかいう話題になったんだと思う。
「え?どういうこと?」と聞かれて、その時はうまく言葉にできなかったけど、最近「あ、これが『弱気さ』というものか」と感じたことがあったので、ここで一度書いておきます。
「弱気さ」への憧れ
「弱気さ」という言葉を好きになったのは、間違いなくスピッツの影響だ。
今年の5月から、スピッツのアルバムを、5日に一枚ずつ、じっくりと聴く旅路に出た。先月の半ばにその旅路は終わりを迎えたけど、たくさんの出会いがあった。
草野マサムネさんの歌声はもちろん、歌詞の世界にもどっぷりと浸かるようになった。
「猫になりたい」だとか、「空も飛べる『はず』」だとか、
どこか弱々しくて(それでいて力強い)、だからこそ自分に寄り添ってくれるような言葉とメロディに出会って、スピッツの「弱気さ」(友達は「隠キャ感」と言っていた)に惹かれていった。
そして、冒頭の「弱気な人になりたい」という考えに至るようになった。
「弱気さ」とは
「弱気さ」を噛み砕いて言うと、「謙虚さ」と「包容力」だと思う。
ゼミで先輩のお話をお伺いする機会が何度かあって、どの先輩も魅力的で、何がかっこいいと思ったのかを考えていると、皆さん同じ趣旨の言葉を言っていたことに気がついた。
例えば、
「これはあくまで僕個人の意見なんで」
「何か参考になるものがあればいいなってぐらいで聞いてください」
こんな感じ。
簡単に言うと、自分の考えを押し付けない姿勢だ。
確かに、
「絶対にこうした方がいい!」
「こうあるべきだ!」
っていう言葉使いは確かに魅力的で、世の中(その一部しか知らないのだろうけど)にはパワフルな言葉が溢れている。だけど、その強力さが故に、誰かを傷つけたり、置き去りにしてしまうこともある。
だから、自分自身が力強さに圧倒されて、劣等感を感じてしまうからこそ、他人が、いや、自分と同じように気弱な人が傷つかないように、丁寧に、謙虚に言葉を選んで伝えようと思っている。
自分の考えが絶対的なものではないと弁える謙虚さと、他人の意見を尊重する包容力。
これが大事なことなんて、当たり前のことで、誰しもがとうの昔に知っているようなことなのかもしれないけど、最近になってやっとわかってきた。
当たり前のはずだけど、気が付いた時にパッと視界が開けたから、特別な発見ということにしておいて、自分の中で大切に抱えていよう。
金平糖のかけら
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