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なかなか難しい

一応、そろそろ復帰が出来るかと思っていて、リハビリやら話が出ている。
相変わらず、やり過ぎなくらいのウォーキング+写真撮影は続けていて、
気が付けば相当の枚数がある。

とは言え、ただのデータとしてHDDに積もっていくだけで、
現状、何の役にも立たない。

一つだけ、ポストカードにしてもらえる賞を取ったので、
ほんの些細な事だけど、私の写真が世間の役に立ちました。
何より、誰かの手に渡ってずっと世界のどこかに在り続ける可能性が嬉しい。

今、思い起こせば忙しくなってきてた2022年は、あれだけバイクにも乗ってたのに、ほとんど写真を撮っていない。
2023年も、鬱と診断されて秋までほぼ写真がない。
バイクも乗らないと、って思いだけで走り回ってて楽しくなかったのかな。
病気の件で、即降りたのも何かしら言い訳がしっかりと出来たから、
もういいや、ってすぐ決断したようにも思える。

写真って、心に余裕がないと出来ない趣味なんだと思う。
自己基準とはいえ、どこかにあるだろう美を求めるわけだし、
仕事に追い込まれてる人間が、美など感じる筈もない。

世を美しいと感じられるのは、やはり正常な心の状態があってこそ。
インスタで、海外の方から「あなたは日常を日常にせず、日常の中の美を探すことに長けている。」と言うような賛辞を頂いた。
これこそ、自分の求めてる世界なので相当嬉しかったです。

何気ない日々と、身の回り数キロの範囲で起きている日常に美を求める。
そして、記録する。
日の目を見ないのかも知れない、自己満足だけの世界だけど。

閉ざされた夕日

色々な人が、なぜ写真を撮るのか?とか、大きなテーマを書かれているが、私は何となく、としか思ってない。
時間や場所を超えて、その瞬間を世界の誰かと共有できるのなら、そんな嬉しい事はない。
誰かの中に残らなくても、一瞬美しいなって心が動いたなら、それは撮った本人からしたら、凄いことだと思う。
私が撮った時の思いがコピー出来ているのだから。

それで十分。

比較的、繊細な世界を撮っているつもりなのだけど、
それは鬱にならなかったら見えなかった世界だと思ってる。

時間があるから、ゆっくりと見て、ゆっくりと撮れる時間がある。
それと、人にではなく植物や風景に向ける思いが変わったのだと思う。
また仕事に戻ったら、今の気持ちは忘れるのだろうか?
だとしたら、悲しい話だ。

自己肯定が爆上がりします! いつの日か独立できたらいいな…