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ダメな人になりたい

冒頭から一体何を言っているのかと思われるだろう。
言っている事は無茶苦茶でも、まごう事なく本心である。

思い浮かべるダメな人、とはどんな人だろうか?
仕事の出来ない人、金銭管理の出来ない人、酒癖の悪い人、
小さい事ならマナーのなってない人とかだろうか。

大きく見ればきっと、そう言う人たちは不幸せな事に遭遇する事が多くなると思う。
だがしかし、小さく見れば本当にその人たちは不幸せだと思っているのだろうか?
列に並ばず、横入りをして電車で座れたらその人は申し訳ないとか、良くない事をした、などとは思っておらずしてやったりと幸せを嚙みしめると思う。
きちんと並んで座れなかった人は、きっとその人のお陰でイライラを感じる。自分は人として正しい事をしているのだと、言い聞かせて自分で自分を褒めるしかない。
歩きスマホだってそう。本人は楽しく動画に夢中なだけで、後ろにズラッと並ぶ人たちのイライラなど感じてもいない。
だが、押したくなる気持ちに耐えてイライラしている歩きスマホでない人たちはどうだろう?
私は人に迷惑を掛けてないな、と自分で自分を褒めるだけだ。

これらは余りに不平等ではなかろうか?

先に人としての在り方を捨て、自らを優先する人たちが小さかったとしても幸せを享受する。
マナーの概念がなければマナーを守っていない事への呵責の念など発生しない。そもそもないのだから。
猿が人の持っている食べ物を奪ったとて、反省はしないのと同じ。

最近、何だか人に気遣って生きるのが馬鹿らしくなってきたのです。
昔は人を避ければ会釈の一つもあったのだが、前から来る歩きスマホは避けられたことすら気づかず、目を向ける事も無い。
満員電車はスマホをするスペースを作っている人が優先で、しないならしてる人に譲れと言わんばかり。
こうした方がいいのかな?と他人に気遣いを考える方がやればいい、と言う風潮に疲れた。

もうそれならいっそのこと、私は周りからダメな人の仲間入りをする方が楽なのではないかと思えて来た。
スマホの動画を見て、周りに鞄を当てても感じない。
体臭なんて本人が気にしてないのだからどうでも良い。
服なんて汚くても着てないと捕まるから着てればいい。
何なら奇声を発してても、本人が周りに悪いなって感じさえしなければいいことだ。

もう今の日本で真面目ってバカみたいだ。
仕事だって大きな声で悪態をついた方が、つかれた方から気遣って貰える。
仕事なんてしなくても、周りがやってくれる。

今まで自分がダメな人とか、ダメな生き方と定義してきた事が本当は一番の幸せなのではないかとすら思える。
それらは本人が苦しく感じなければいいだけの事だ。
呵責の念、お天道様が見ている、因果応報。
そんなのどこにあるのか。

良い人は搾取の対象でしかないのではなかろうか?
歩きスマホの後ろを突き飛ばしもせず、ただ静かについて行くしかない人。
優しい人なんかじゃない。ちゃんと怒ってる。
優雅にああ、大変なんですね、気を付けてね。なんて思えない。
人並みの器しか持ち合わせていない。

だったら僕もダメな人になって、幸せになりたい。

自己肯定が爆上がりします! いつの日か独立できたらいいな…