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腹痛あり

お腹が痛いという訴えは、普段健康なエアマンでもしばしば経験するものです。問題はその頻度と程度が、航空業務を遂行できなくなる恐れがあるレベルかどうかです。ある晩、太平洋横断ルートを飛ぶ機長から連絡があり、「お腹が痛くて明朝飛べるか心配」とのこと。ブチルスコパラミン(ブスコパンⓇ)という胃腸の痙攣を抑える注射がありますが、行き先を聞いて即刻キャンセルしなさいと助言しました。大海原の只中で腹痛で四転伐倒されても、クルーはドクターコールしたところで何も出来ないからです。

腹痛症の多くは急性胃腸炎で、特にウイルス性胃腸炎は夏はアデノウイルス、冬はノロウイルスなど定番の病原体まで知られています。多くは経口感染で、潜伏期が2-3日以内ですから、乗務前の飲食が関係している場合が少なくありません。飲食まで口出しされることを嫌がるエアマンが多いことは分かります。けれども近年、無頓着な若手が増えている印象を持ちます。日常の健康維持は、操縦技量や経験と同じくらい大切なエアマンの素養です。

慢性的にお腹が痛むとなれば、これは原因を探って治療せねばなりません。一番あるのは便通異常による腹痛です。毎日便が出ていても、食べた分の便量に匹敵する排便がないと、いずれ便秘になるのは当然です。大腸は右側が肝臓の下を斜め内側に上行する一方、左側は脾臓の近くでヘアピンカーブしますから、左上腹部痛の原因になり易いとのこと。たまに心臓の精密検査までして、便秘が原因と結論されることも度々あるそうです。

しかし時には慢性の炎症性腸症候群という、深刻な病気が見つかることもあります。潰瘍性大腸炎やクローン病と呼ばれる疾病が代表例です。これらの疾病は病態が完全に解明されていないそうで、疲労やストレスが原因で病状が悪化します。ですから機長昇格訓練など、エアマンのキャリアで重要な時期に、発症したり悪化するのです。症状を安定化させるためにステロイドや免疫抑制剤の投与が必要で、乗務を続けられなくなる事例もある恐ろしい病気です。

更に大腸癌という命に関わる深刻な疾患を患うエアマンも時折り見聞します。大腸癌はエアマンの職業病ではありませんが、操縦士に多い癌との調査研究もあるそうです。長時間じっと座っている上、かつては操縦士にスモーカーが多かったためかも知れません。肝臓や肺へ転移しているのが見つかると、操縦より残された人生の事をを考えねばなりませんが、早期であれば、内視鏡治療で根治することもあるのです。40歳前から便潜血検査を受けるようにして、早期に大腸癌を見つける努力を続けましょう。

最後に、飲食で急性腹症を起こす事をお話ししておきます。冬場は生牡蠣を食べて、直後から腹痛嘔吐に襲われるノロウイルスの急性胃腸炎は有名です。魚介の刺身を食べてから数時間して、キリキリとした腹痛が起これば、アニサキスという線虫が胃壁に食らいついて起こることがあります。生焼けの焼き鳥、中でも鳥レバーを食して数日後に発熱と強い腹痛に襲われたから、キャンピロバクターという細菌性腸炎が疑われます。これは神経障害も合併し得る恐ろしい腸炎です。
国際線で南方へフライトするエアマンは、原虫アメーバによる腹痛症があることも覚えておきましょう。東南アジアの下町にある屋台で、地ビール片手にエスニックフードに舌鼓を打つのは格別です。ところが不衛生な食材、手指や食器による微生物感染には要注意です。中でもアメーバ赤痢は炎症性腸症候群を引き起こすため、潰瘍性大腸炎と誤診されて、ステロイド投与で病状悪化することもあるようです。診察医に職業と渡航歴を伝えておくことは、その後の展開に大きな違いをもたらす一例です。

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