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クマさん可愛いね…(『ミッドサマー』を見た話)【ネタバレ有】

 先日、アマゾンプライムでもう少し待てば無料で見れたことを知らずに、多少の金を払って『ミッドサマー』を見た。

 初めに断っておこうと思うのだが、この記事は本作品がとても好きな人にはあまりオススメしない。なぜならわたしはこの映画を「傑作」だとはあまり思っていなくて、どっちかというと「アーティスティックなB級映画」みたいに感じており、それが言葉の端々に表れてしまうだろうと思うからだ。いや、演出とかはすごかったりするのかもしれないのだけど、わたしは映画の撮り方についてそんなに詳しくなく、ただ絵面とストーリーを中心に見ているので、そういう風に感じるのだと思う。

 ただ、この映画が好きか嫌いかという感想よりは、「多分こういうことを描いていたんじゃないかな」という部分にフォーカスして書いていきたいと思っているので、そのつもりで読んでもらえると嬉しい。

(ところどころ気持ち悪い表現が出てくるかもしれません。ごめんなさい。)



精神疾患とドラッグ

 さて、映画の主人公は、妹の排気ガス自殺によって家族全員を失ったばかりで、本人も精神疾患持ちのダニーという女性である。

 そんな彼女は抗不安薬を飲みつつ、彼氏からも十分な心の支えは得られないまま、ホルガ村というスウェーデンの辺境にある小さな村に足を踏み入れることになる。当然この村がやべーわけなのであるが、そもそも村に行く前から、少なくとも彼女の精神状態が安定しているわけではなかったということに留意する必要はあるだろう。

 ホルガ村は、白夜の明るさと花と小綺麗な白い民族衣装に彩られた、なんだかふわふわとした印象の村である。しかし毎日続く白夜と個室のない寝室によって夜も十分な睡眠がとれない上、ことあるごとに幻覚作用のあるドリンクを盛ってくるため、思考能力がゴリゴリ削られていく仕様となっている。

 一つ感じられるのは、この村に「個人」は存在しないし、まるで村全体でラリっているかのような、ある種感覚や思考を麻痺させて幸福感・一体感を得ているようなところがありながら、一方で村人から常識的な思考が全く感じられないわけではなく、外の世界のルールを分かった上で村のしきたり、その合理性を守るために行動している、だから余計にたちが悪いということ。

 まあ、さすがに情報伝達の行き届いた現代社会において、この映画のように、殺人が行われることをデフォルトとするしきたりや儀式をコンスタントに?実行し続けることは不可能であると思うので、「いかにもありそう」感は割と薄いのだが。

 ともかく、この村に足を踏み入れたが最後、頭が普通ではいられなくなってしまうのと同時に、そもそも主人公の精神状態は初めから普通ではなかったという事実が、この映画の独特な雰囲気を形作る要素の一つとなっているのではないかと思われる。



村の儀式と民間信仰

 映画ではホルガ村の夏至祭が進行していくわけなのだが、そこで行われる儀式の内容は、現実に行われているものではなくアリ・アスター監督の創作である。

 ただし、中二病御用達でおなじみの北欧神話をはじめとする、主に北欧に土着の信仰や文化、伝承を参考にして構想されていることが公式HP内でも明らかにされているし、儀式の様子を見ていると「なんかどっかにこういうのあったよな…」という既視感がある。まあ、北欧に限らず、こういう類の風俗・伝承等は世界各地で同じようなものが発生するものなのだろうなということ、それによってこの映画がフォーク・ホラーでありながら一定の共感なのか普遍性なのか、そういったものを獲得しているらしいことが、民俗学や文化人類学的な意味では結構面白いのかもしれない。


 映画の中での儀式について、特に印象に残ったものについて書いていきたい。

 まず、わたしが見ている中で一番きたぞ!と思った(これ以降の儀式はあまりピンとこなかった)のが2日目の儀式である。

 作中で「アッテストゥパン」と呼ばれているこの儀式は、72歳になった老人が自ら崖から飛び降り、ワンチャン即死できればOK、運悪く死に損なってしまった場合は村人に頭をかち割られるという、わりと衝撃的な内容の儀式である。

 先史時代の北欧に実在したと伝えられる儀式をモチーフにしているとのことだが、おそらく体力が衰えて働けなくなった老人は、穀潰しになる前にさっさと死んだほうがいい、というある種の合理性および固定観念に基づくものであると思われる。

 「若い世代に命を託す」と言えば聞こえはいいのだが、その根底にある思想を正面から見つめるならば、近代的な価値観からは逆行するものと言わざるを得ないだろう。最近のお年寄りは72歳でも割と元気な人多いしね。ただ、我が国でもネット上などで「老害」に対するヘイトが散見されるのを見ていると、老人は邪魔だとか、長生きはしたくないとかいうのは人類にある程度根源的なバイアスなのかなという気がしないでもない。

 余談だが、「ミッドサマー キャスト」でググった時に「ビョルン・アンドレセン」という聞き覚えのある俳優の名前を見つけて、えっ??どれ!?と思って調べてみたら、死に損なって村人に頭かち割られた方の老人の役だった。この「ビョルン・アンドレセン」という人はかつて映画『ベニスに死す』の中で絶世の美少年を演じたスウェーデンの俳優であり、こっちはだいぶ昔の映画なので「生きとったんかワレ!」ってちょっと感動した。この『ベニスに死す』はビョルン少年の絶世の美少年ぶりを拝めるというだけでも一見の価値がある映画だと思うので、ぜひ見てもらえると嬉しい。

 

 それから、しばらくパイを食べれなくなった人が結構いたと話題の、「自分の身体の一部をお目当ての相手の食べ物に入れるまじない」について。

 かつて「おまじない」をやる系JCだった黒歴史をもつ者としての感想を言わせてもらうと、こういう感じのおまじないって結構ネット上とかでも検索すれば出てきたりする。さすがに食べ物に入れるのはほぼないとは思うけど。ただし、人間の身体の一部を使う(髪の毛とか爪とか)タイプのまじないは、「ものすごく強力」ではあるけど、どっちかというと「黒魔術」や「呪い(のろい)」に分類される、失敗すると自分に返ってくるからまずやらない方がいい系のものであることがほとんどなので、まあ信じる信じないは別としてやらない方がいいと思う。

 あと例のジュース?については、生理中から排卵の時期までってだいたい2週間くらい間が開くはずなのだけど、その間ずっととっておいた経血を使ったのか…?という想像をしてしまった自分が一番気持ち悪かったです。


 最後に、いわゆる「性の儀式」について。海外は無修正らしいけど、日本版はモザイクがかかっていてそこはかとないAV感にちょっと笑ってしまった。

 周りの女達がああ、ああ、言っているのがかなり異様な雰囲気だけれど、めっちゃ近くで見られててすごいやりにくそうである。これもまた「家族として、すべての感情・感覚を分かち合う」「個人が存在しない」という村のスタンスを端的に表すものであったように思う。

 終わった後に子種を身体の奥に送り込もうとする動きをしているのがなんか一番生々しかった。ただ、あの1回だけで子どもを授かるのはものすごい低確率であり、そんなんで本当に「外部の血」を入れることに成功してきたのか?毎回それで成功しているという設定ならちょっと妊活中の人に謝ってほしいとは思った。


 はい。わたしの特に印象に残った儀式はそんな感じです。もちろんクライマックスの儀式も印象には残っているけど。

 ホルガ村のしきたりや儀式は、全て「なぜそれをするのか」という理由が一般的な感覚でも分かるようにできており、それは時に迷信に基づくものであるかもしれないけども、ある意味徹底した合理性のもとで回っている。そういう意味ではありがちな土着の風土として、結構説得力やリアリティがあるのかな、とは思った。



クリスチャンについて

 さて、主人公であるダニーの彼氏がクリスチャンという大学生なのだが、こいつについて少し考えてみたい。

 映画の最初の方で、メンタルを患っていて重めの言動をしてしまうダニーと、そんな彼女と正直別れたいけどでもなーとか思ってるクリスチャン、そしてクリスチャンの周りのクズめな男友達の間に流れているビミョーな空気は妙にリアルで、正直『ミッドサマー』の中でそこが一番ホラーだったと感じている。

 ダニーはクリスチャンのそばにいることで余計にメンタルがやられている感があるわけだが、このクリスチャンというダメ彼氏の人間性を表現するなら、優柔不断で流されやすく、自分ではほとんど何も決断できない男、という風に言えるのだと思う。

  そうでなくても、メンタルが不安定な人を支えるのはとても難しいことで、クリスチャンのような人間にはまず無理だと思っている。だから覚悟がないのなら支えきれないと思った時点で、ダニーのためにも自分自身のためにも、傷が浅いうちにさっさと別れるべきなのだと思う。そうでないと共倒れになるからだ。でもクリスチャンにはその決断ができない。自分が悪者になりたくないから。あわよくば成り行きで自然消滅してくれないかなとかどっかで考えてそうである。まあ気持ちはわからんでもないのだけど。

 その後も彼女の誕生日を覚えていなかったり、結局流されて性の儀式にのぞむことになってしまったり、果ては人が人生をかけて究めようと思っている論文のテーマを、その場のノリで俺もやると言い出し、それに怒って共同研究を拒否したらオイオイわがまま言わずに大人になろーぜ、みたいな空気感を出してきたりしてどんどんクズ度が上がっていく。しかも当人はおそらく自分がクズであるということに無自覚で、当たり障りない取り繕いで善良な常識人の振る舞いができてると思ってそうなところが余計に残念である。

 ただ、ここまで散々悪口を書いてきたわけなのだが、クリスチャンのような人って実は意外とそこら辺に結構いるのではないかと思っている。わたし自身もいくつか心当たりがないわけじゃない。

 彼の罪は主体性も責任感もなくすぐに流されることだ。それによってダニーが深く傷つけられたのは事実だ。ただ、それが生きたまま炎で焼かれなければいけないほどの罪なのかと言われるとうーんと思ってしまう。性の儀式にのぞんだのも、まあ正直願望はもともとあったと思うが、ドラッグで判断力を失っていたのも大きいとは思う。

 確かに、そういうクズではあるけど法では裁けないような人間性に対して鉄槌を下すのって、フィクションの中での私刑にやってもらうしかないところがあって、そういう意味では素直に「スカッと」すればいいのかなという気もする。ただ、若干理不尽というか可哀相な気がしないでもない。

 最後の焼かれるシーン、現地の志願者がイチイの木から取った何かを、「これ飲めば苦痛も恐怖も感じないから」と言われて(イチイの木の果実以外の部分には毒があったはずだが)与えられるも、それは完全に迷信で、結局すごい苦しんでるところは皮肉がきいていて良いと思った。一方クマの皮を着せられたクリスチャンは薬の影響で微動だにせず声を上げることもなく炎に包まれるのだが、これはできないだけで実はめちゃくちゃ苦しんでるのか、ある程度薬によって痛覚が麻痺しているのか。多分前者なのだろうなと思うと何とも言えない気持ちになった。まあ、クマの着ぐるみ状態なのはよくわからん可愛らしさがあり、若干ギャグ要員として扱われている気もしないでもないが…。ところでアイヌとかもそうだけれど、寒い地方や国って結構クマを神格化しがちだと思う。やはり生態系の頂点に君臨するからだろうか。



ダニーの「救済」とその他

 そうして自分を裏切った男に復讐を果たしたダニーであるが、最後の最後で「笑顔」になるシーンはゾッとするほどインプレッシブである。

 家族を全員失ったダニーが、村での「疑似家族」の体験を通してはじめて今までのしがらみから解放され、自由の存在しない村ではじめて精神的自由、心の安寧を得ることができたというのはなんとも逆説的な話である。ハッピーエンドには違いないんだけど、結局彼女もまたラリっているだけなので、今後を考えると嫌な予感しかしない。

 アリ・アスター監督によればこの作品は「おとぎ話」なのだという。傷ついた女の子が不思議な村に迷い込み、魔法やまじないの力を借りて悪い男を倒し、幸せに?なる話といったところだろうか。もしかしたらこの映画に感じる一種のパチモン感みたいなものは、そういう映画のコンセプトから来ているのかもしれない。


 あと、映画中では全体的に花が咲き乱れていて、可憐でかつグロテスクな印象を画面に与えている。人間は綺麗だと思って花を飾ったりするわけだけど、考えてみると植物において花とは生殖を担う器官である。だからある意味生命に対するプリミティブな祝祭であるこの夏至祭そのものを象徴するモチーフなのかもしれない。

 

 はい。他にも色んな要素が盛り込まれているとは思うけど、これくらいにしようと思う。公式HPなどを見ると、結構綿密な下調べの上で細部にこだわって制作されていることがうかがえるので、気になる人は見てみると面白いかもしれない。

 また映画見たらレビューしようと思います。