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青い夏、祝杯

毎朝8時に歩いている道を、夜8時に歩く。
時計の針は同じでもいつもとは違う特別感。

落ち着かないのは時間のせいだけじゃない。

いつもなら第一ボタンを留めていないだけで「生徒手帳取るよ」と怖い体育教師に声を掛けられるものだけど、今日に限ってはそんな事はない。
下はほんのり緑が混じったグレーの夏服スカートだけど、上はシャツにリボンではなく、Tシャツなんだもの。

中学生の赤いリボンも、高校生の緑リボンも、今日は誰も身に付けていない。3人横並びになるのがやっとの狭い通学路を埋め尽くすのは、青いTシャツ。

「21時に学校集合ってドキドキするね」
「ねえ、シャワー家で浴びてきた?」
「コンタクトはサービスエリアで外そうかなあ」

この先6年間を過ごす中高一貫校に入学して4ヶ月。
わたしは生まれて初めて夜行バスに乗った。



夜の高速道路は風景がほとんど変わらない。

賑やかだったバスの中も、カーテンが引かれる窓が増えて少しずつ落ち着いてきた。後ろの方の席では極力明るさを落とした携帯電話の画面が蛍の光のようにぼうっと揺れている。

あの頃は、カバンの中でそっと携帯を開いて不要不急のメールをするのが楽しかったし、先生たちにもバレていないと思い込んでいた。
わたしたちがそう思い込めるように見て見ぬ振りをしてもらっていただけだったと教えられたのは、卒業後初めて母校に遊びに行った時のこと。

箸が転んでもおかしい年頃。
中学1年のわたしたちにとって、話題なんてなんでも良かった。


先に出発したバスに乗っている隣のクラスの友達から「私たちもうすぐサービスエリアだって」とメールが届く。

「関西って、行くの初めて」
「エスカレーター逆なんだよね?間違えないかな」
「いや、エスカレーター乗るところに行かないでしょ」

間も無くサービスエリアに着くことを先生が告げ、バスはまた賑やかさを取り戻す。
まだ関東も出ていなかったかもしれない。それでもすっかり冒険気分だった。自分たちのバスのナンバーを何度も確認して夜に降り立つ。


「歯磨きしたいしお茶か水かなあ」
「そうだねえ。でもさあ、炭酸飲みたくない?」
「分かる!ああ、炭酸の口になってきた」

うだうだと自動販売機の前で話していれば、高い位置から「何飲むの」と声が降ってきた。振り向けば、土曜日の部活にたまに来るOBの先輩。

バスは在校生だけだったはずなのに何で、と聞く前に「佐藤と2人で交互に運転してんの」とくたびれた顔で呟いた。缶コーヒーを2本手にした先輩は、続けて硬貨をチャリンと入れる。

「…で、要らないの?」

友達と顔を見合わせて、慌ててボタンを押した。


蓋を開けた時のシュワっという音はバスの中でそれなりに大きく響いてしまう。やっぱりお茶にすれば良かったかな、と思いつつこくりと飲み込むとピリピリと喉の奥に弱い痛みがやってきた。これだ、と身体が正解を告げる。

そっとカーテンの隙間から外を眺めてみるも、景色に変化は無くて面白みを感じられない。この道が、この夜が、ずっと続くような気がした。

今頃先輩たちも缶コーヒーを飲みながら、代わり映えのしない夜の中を走っている。卒業しても尚、自分たちで運転してまで行きたいものなのか、というのが衝撃だった。同じ歳になれば分かるのだろうか。なんだか先輩たちが途方もなく大人に思えた。

だって、わたしは、もう眠たい。




当然ながら夜はいつまでも続くことはなく、カーテンの向こう側はいつの間にか明るくなっていた。ビタミンカラーの炭酸は、すっかり夏の顔をしている。

話し声が増え始め、バスの中にも朝がやって来た。
先生の挨拶の後、前方から朝ごはんが回ってくる。「ベタだね」「朝から重たいね」なんて言いつつ口に運んだカツサンド。ベタだけど、だからこそいよいよだという気持ちもあるわけで。


バスを降りて目的地までの道を歩く。
周囲は同じ学校の生徒で固められているため、関西弁もあまり耳に入ってこない。遠くまで来たはずなのに、それらしいものを目にすることも出来ない。口から出るのは東京と変わらず「暑い」「溶ける」「日焼け止め流れる」「アイス食べたい」だった。

「あ、見えた」

誰かの声に、顔を上げる。

ああ、本当だ、見えた。
年季の入った緑が視界いっぱいに広がった。

だんだんざわめきが大きくなる。深呼吸のつもりで思いっきり息を吸い込むと夏の暑さで肺がいっぱいになった。ドキドキが加速する。



阪神甲子園球場のアルプススタンドは、県大会の球場のそれと比べると狭かった。

応援団員が掲げるスケッチブックには「アッコ」の文字。吹奏楽部がひみつのアッコちゃんのテーマソングを奏で、わたしたちは椅子に脚をぶつけながらも、青いメガホンを手に左右に動いて声を張り上げた。

そーれ、○○ー!
○○ー!○○ー!いけいけー!
(ハイハイハイハイ!)

逆転勝ちの学校だと言われてきたものの、それでも先制されるとハラハラせずにはいられない。ましてや1回表で5点の先制点だ。

キンと小気味良い音が鳴り、みんなが一斉に顔を同じ方向に動かす。打ち上がった白球は太陽と重なり、次の瞬間には歓声がわあっと広がった。吹奏楽部が音を鳴らす。わたしたちは顔を真っ赤にしながらリズムに合わせてメガホンを叩き、飛び跳ねた。

1点、また1点と徐々に点差を詰めていく。


ついに逆転し、8-9で迎えた9回表。
2死2塁。カウントは2ボール、2ストライク。

気付けばみんな自然に手を組んでいた。
誰に祈るわけでもなく、ただギュッと手に力を入れて。

ピッチャーの手からボールが放たれ、
バットが空を切る音が耳元で聞こえた気がした。


キャッチャーの手にボールは収まり、三振、試合終了。



「かんぱ〜い!」

グラスに入ったジュースやら缶ビールやら各自が好きなものを手に取り祝杯をあげた。テレビの向こうから校歌が流れてきて、慌てて飲み物をテーブルに戻し、みんなで肩を組みながら数年振りに校歌を歌う。

「次勝てば甲子園か〜」
「また集まって鑑賞会やろうよ」
「いや、むしろ…行っちゃう?!」
「えっ良いじゃん、行こうよ行こうよ」


毎年7月になるとTwitterのタイムラインが賑やかになる。
わたしたちのように誰かの家に集まって鑑賞会をしたり、実際に球場に行ったり、試合速報をツイートしたり、それを見ながら各々が盛り上がる。
大人だなと思っていたOBの先輩たちと、すっかり同じだ。

『君に見せたい夏がある』

中学1年のあの夏を過ごした第87回全国高等学校野球選手権大会のキャッチフレーズ。わたしにとってあの夏は輝いていた。わたしの思う「夏」の成分がぎゅっと濃縮された夏だった。



2020年の夏、甲子園では無観客試合が行われている。

わたしは、早くまた満員のアルプススタンドが見たい。観客で埋め尽くされた甲子園で夏を感じたい。

みんなで見たい夏の光景が、いっぱいあるんだ。


学校カラーで埋め尽くされるアルプススタンド。
鳴り響く応援団の声援と、メガホンの音、歓声。
ポニーテール、流れる日焼け止め。
生き物のように見える相手校の動きの揃った応援。
バットの芯が白球を捉えた音。
半分凍らせたペットボトルと、必勝うちわ。
大声で叫ばれる選手の名前。
エールを与えてくれる吹奏楽。
青空に吸い込まれていく白球と、光る緑の芝。
汚れたユニフォーム、笑顔、校歌、挨拶。



いつかまた夏を見せてくれたあの場所で、夏を感じよう。

アルプススタンドで、卒業生として祝杯を上げよう。


15年前のようで、15年前とは違う夏を。



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