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療養期間の記録② うつ状態と性格のあいまいさとトラウマ/ ”あそび”の大切さ


前回に引き続き、休職、療養中の日々や、考え事を書きます。

前回の記事を購入してくださった方、ありがとうございました。
毎回500円は高すぎる気がしたので、これから、奇数回の文章のみ有料にします。試しながらなので、また変更するかもしれません。今回は、無料で最後まで読めるようにします。


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休職期間、いろいろとお世話になっている方の家に草刈りのお手伝いに行ったり、会って話そうと声をかけてくれる人たちと喋ったりして過ごしている。

一人で過ごす日はなるべく外に出るようにしていて、神社や公園のベンチで本を読んだり、考え事をノートに書いたりして過ごすことも多い。6年ほど前に読んだ、”NATURE FIX”という本を少しだけ読み返していて、そこにも同様のことが書かれているのだけど、自然豊かな環境に身を置くことは、体にも頭にも良い気がする。外に出れないほどのうつ状態じゃないから、それはかなり助かっている。

ちょっと動いただけですぐに疲れてやたらと眠くなったり、何もやる気が出ないような日もあるんだけど、「書く」という行為だけは、今の自分にできる、もしかしたら価値があるかもしれない行為だと思って、noteの更新は、どうにか続けていきたいなと思う。


うつ状態と性格とトラウマ


精神科の診断というのは、内科とかと違って、患者の証言を元になされるから、必ずしも正しいとは限らなくて(「うつ病と診断されていたけど実は双極性障害だった」なんて話はよく聞く)、しかも時間とともに状態は変わるから、診察時の診断が「うつ状態」だからって、それから日がたった今、自分がうつ状態なのかどうか、わからなくなる。

もう治っているのかもしれない。治ってるんだったら、ずっと休んでないで働いた方がいいんじゃないか。
悲観的に考えてしまうのも、記憶力が悪いのも、元からそうだったんじゃないか、性格や、自分の特性の問題なんじゃないかと思うこともある。(実際何割かはそうかもしれない)

しんどい状況が起きた時に、ぼんやりしてしまって、頭が回らなくなって、ただその状況を見つめることしかできないようなことも、過去にも何度もあった。それはもしかしたら、幼少期の経験がトラウマのようになっているからかもしれない。そう考えると、これから生きていくために、それを克服しておいた方がいいのかもしれない。うつ状態が回復しているとしても、また繰り返さないですむように、多少大変な状況でも今後は乗り越えて行けるように、トラウマ的な経験とか、自分の考え方の癖なんかと、時間のあるこの機会に向き合っておいた方がいいのかも。なんてことを考えるに至った。

次の通院のときに心理士さんに相談してみよう。

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闘病記コーナーと精神科医の”あそび”

大学時代に臨床心理学を勉強していた頃はよく読んでいた、うつ病に関する本を最近また読み始めた。以前から頻繁に通っている、川を渡ったところにある近所の図書館で、初めて闘病記コーナーを訪れた。

「うつ病を体験した精神科医の処方箋」(大月書店、2005)という本を目当てに訪れた闘病記コーナーには、ハンセン病や、認知症、ALSや、自閉症、糖尿病など、精神病だけでなく様々な病気や障害のある人が闘病記を綴った本がたくさん並んでいた。病に苦しんでいるのは、精神病の人だけじゃなくて、この世界には、いろいろな病気や苦しみのさなかにいる人が大勢いる。そんな、当たり前のことに気づかされる。

青森の精神科病院で10年以上院長をしたあとで沖縄の病院に勤務するようになった蟻塚亮二さんという方の著書、「うつ病を体験した精神科医の処方箋」は、18年前ということもあって、ずいぶん自由で率直にものが書かれていておもしろい。”あそび”の必要性について書かれた一節では、病院で入院患者さんとよく遊んでいて、患者さんを後ろから羽交い絞めにする話が出てきて、その時代のどかさというか、おおらかさを感じた。(もちろん一方的ではなくて、逆に蟻塚さんは患者さんからカンチョーされていたらしい。笑)今でもそういう病院あるのかなあ。あったらいいなと思う。

そんなことをしていると彼らからもお返しがくる。私がぼんやり歩いている時に、「浣腸!」と叫んで、後ろからケツに両手をいきない突っ込む者がいる。もちろん、下手な囲碁もやる。
 で、遊べる患者さん、ジョークの分かる患者さんと、そうでない患者さんが色分けされ、遊べない患者さんがいかにして遊べるようになっていただくかが私の仕事のひとつになる。健康的な退行ができるかどうかは、心の健康度のものさしのひとつだから、遊べない患者さんに少しでも心に「あそび」を作ってほしいからである。
(中略)
ところが統合失調症の患者さんの中には、人間への基本的信頼感や存在への確信が十分に持てない人がいて遊べないことがある。「タカイ、タカーイ」遊びというのがある。もしも「タカイ、タカーイ」と持ち上げられるたびに、赤ん坊が床に落とされていたとしたら、赤ん坊の心はどうなるだろう。「タカイ、タカーイ」遊びがはじまると察知しただけで赤ん坊は恐怖に身を硬くするにちがいない。現実に高いところから落とされなくても、心の受け取り方(内的現実)として、親との間でそのような残酷・過酷な乳幼児期を過ごしたと想定される患者さんもおられる。

「うつ病を体験した精神科医の処方箋」pp111‐113

 余裕がない時期に、自分は人の冗談が理解できずに笑えなかったりしていたし、思えば、たぶん人生で一番憂鬱だった中学時代には、からかわれたり、ふざけて友人が言ってきたことをやたらと間に受けて傷ついてしまったりしたことはよくあった。もしかしたら、子どもの頃に、家庭のなかで、いろいろと怖いものを見てしまったから、中学生の頃に、遊びを遊びと思えない性格になってしまっていたのかなあと、過去のことを振り返っていた。大人になって、ある程度社会に対して安心感を持てるようになってからは、ふざけたり冗談言い合ったりができるようになったから良かったのだけど。

ちなみに、この本の「”あそび”の必要性」の次の節は、「常識はずれのすすめ」で、蟻塚さんが手荒い運転をするスピードマニアだったり、海外渡航でいろんなトラブルに見舞われたエピソードなんかが書かれている。

 ちょっとぶっとんだエピソードを読んだら、自分の心にも遊びができるというか、こんな感じで生きてる人もいるんやなー、自分ももっと自由でいいんやなーと思えて救われる。

 ちなみにこの本には、自我機能(現実吟味、判断力、自律性を保つ機能、統合する機能などの12の機能にBellackという人が整理)に必要なエネルギーを節約するための”手抜きのすすめ”とか、うつ病からの回復期にはいい仕事をしようとするんじゃなくて、「黙々と最低の水準の仕事をこなすこと」を目標にすることなど、結構具体的なアドバイスがたくさんあって、読んでいて気づきも多いし、楽になる。家事の手抜きの話のなかには「米を洗わずに炊く」って話があって、一度やってみようと思った。

手抜き料理といえば、鯖缶とキムチに、マヨネーズとポン酢を入れて混ぜたら結構いけた。”鯖マヨキムチポン酢”って呼んでる。一度試してほしい。


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草刈しながらよもやま話

 最近お世話になっている方の家の畑の草引きや草刈りを手伝いながら、いろんな話を聞かせてもらっていた。その方は世話好きな人で交友関係が広いから、いろんな人の人生のエピソードを知っている。

 親が奔放で子供の頃から辛い思いをした人、両親を自死で亡くした人、職場でいじめにあったり、いろんな苦労をしている人がいる。ああ、それでもみんな、病気になったりしながらも、生きているんだな。たくましいな、すごいなと思う。

 自分は、大学入学と同時に家族の元から離れて、そのあともいろいろあったと言えばあったけど、こうやって休職して、一人暮らしで過ごす時間が持てているというのは、ありがたい贅沢なことなんだろうなあと思う。だからって、世のため人のためにすぐに復職した方が良いわけではない、もう少し療養した方が良いってことはわかってるんだけど、今こうして休めていることには感謝したい。

 自分に合った仕事を探して職を転々としたあとで、性に合った仕事に出会えて楽しく働いている人の話もしてくれた。自分は、しんどいときにいろんな人に助けてもらったから、自分もしんどい思いをしている誰かを助けたい、対人援助の仕事に戻りたい気持ちがあるけど、その仕事が自分に合っているのかというと微妙なところで、向いていないなと思う面もある。仕事選びは難しい。どんな仕事でも、何かしらその人に向いていない、しんどいと感じてしまうところはあって当然だし、みんな、多かれ少なかれそれを感じながらも働いているんだろうとは思うんだろうけれど、次は、無理しすぎずにできる仕事や、働き方を選ばないとなと思っている。

 頭が疲れているときに、草刈りや草引きで体を動かすのはいいリフレッシュになった。そのあとで、年配の方と五目並べをして、頭も使ったら疲れて、帰ったら強烈な眠気に襲われてすぐに寝てしまったんだけど、そうやって普段使わない頭を使うのも、いいリハビリかもしれない。


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今日は、この辺にしておきます。
次回は、最近友人が連れて行ってくれたある地域の図書館で、たまたま見つけて読んでいた。「私だけ年を取っているみたいだ」という、水谷緑さんの漫画のことを書けたらいいなと思います。

ちなみにトップ画像は、京都の岩船寺の近くの小さな神社です。

最後まで読んでくれてありがとうございました。

たまには遠くを眺めてぼーっとしようね。