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一人称視点

さて、noteというものを始めてから9ヶ月ぐらい経とうとしているんだが、そろそろ誰かをフォローしてもいい気持ちになってきた。
誰かと関わりを持ちたいと思って始めたのにも関わらず、誰もフォローせずに9ヶ月を過ごしていることに、何をやってるんだとも思う。

誰もフォローしていないからといって、他の人のnoteを読んでいないわけではない。
気になる人がいれば、ストーカーのように毎回検索をかけたり、履歴を辿って続きを読み漁っていたりする。
基本的に私は好きなものには依存型だ。
知りたいと思えば、どこまでも調べ尽くす。
読みたいと思えば、いつまでも読む。
気に入った人がいれば、一番最初の記事まで遡り、そこから最新作へ遡っていく。
それぐらい執着心が強い。
(これをここに書いた上で、誰かをフォローしていいものだろうかと、一瞬不安になったが、まあいいや。)

それなのに、フォローしないのは何故か。
5ヶ月ごろまでは、自分のページに納得がいっていなかった。
サムネイルが今のとは違い、全て同じクリーム色の背景に濃いグレーの字でタイトルを入れ、青色の枠で囲んでいた。
最初は統一感があって好きだったんだが、だんだんnoteの記事数が増えてくにつれ、ページに動きがなくなり、楽しくなかった。
それを今のようなサムネイルに変更し、割と好みにはなったが、いまだにフォローできないチキンさ具合である。

そして、誰に初めてを捧げるか案件もある(言い方!)。
今の所明確にフォローしたいなと思っている方はいるが、心が決まらない。
なんとなくこっそり見ていたいという気持ちもあったり、相手に自分のnoteを見られることがある可能性への不安など、なんとなくメンヘラな気分だ。

自分が綴ったものに対して、自信がないのかと言われれば、そんなこともない。
ひとつひとつしっかりと向き合っているつもりでもある。
ただ、なんとなく心がない気がしてならない。
読み返した時に、本当にそう思ってる?と問いただしたくなるようなnoteが多いのだ。
特に、顕著なのがれんさん関連だ。
確かにその時思っていることを綴っているとはいえ、なんだか言い訳くさいし、本当に書きたかったことはそれか?と首を傾げる現在のたゆがいる。

高校の時に現代文の先生が、「一人称の文章では、本人が書きたいことは書かれているが、書きたくないことは書かれていない。それを読み取るのも大切な考察だ」とおっしゃっていたことが頭をよぎる。
自分が書き手になると、この言葉がズシンとくる。
きっと私は書きたいことは書いてはいるが、誰かに読まれるということに囚われすぎている。
書きたいという気持ちはあるし、ある程度本心を書いているつもりではあるのに、その文章が誰かに読まれる以上、自分を全て曝け出す勇気がないのだ。
自分が悪く捉えられるかもしれない事象は書かない。
自分に都合のいい文章しか綴っていないのだ。
だから、自分で読み返したときに「心がない」という印象を抱くのだろう。

そんな自分の文章を他人、ひいては自分が少なからず好意を持った人に、読まれる可能性があることに、何かしらの拒否反応があるのかもしれない。
つまり、私は着飾っている感じがする自分の文章を読まれたくないと思っているのか。
ふむ。。。

たゆよ。
今のたゆを作るのは過去と今のたゆの積み重ねです。
受け入れなさい。そんな自分も。
自分は自分でしかいられないのだから、自分で勝負しておいで。
大丈夫。

いざ、尋常に勝負!フォローーーーーー!!

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