見出し画像

昔愛読書につけた線や付箋は、過去の自分との対話でもある

私には本に付箋をつけたりマーカーで線を引いたりする癖がある。小澤征爾の対談本を友人に貸したら、「ここに線を引くんだって思った」と彼女が言ったのをふと思い出し、ぱらぱらとページをめくり、黄色マーカー箇所を読み返してみた。彼女に真意を問わなかったが、おそらく、なぜここに線を引くのかと疑問に思うことが多々あったに違いない。
 
私が線を引くのは、思いも寄らない見方や発想が語られていたり、琴線に触れる言葉や文章に遭遇したり、ぼんやり考えていたことが明瞭に言語化されていたりした時だ。それらを記憶に留めておきたいが、記憶には限界があるから印を付ける。心に響いたエピソード全てに線を引くわけにいかないから、その話を端的に表すキーワードに線を引く事もある。
 
人のマーカー箇所に共感したり、違和感を覚えたりするのは、ある意味当然だ。なぜなら、これまでの人生経験や知識、思想、生育環境などによって、人が印をつけた箇所が自明のことのように思えたり、なるほどと納得したり、むしろ新鮮に感じたりするからだ。
 
ところで、ある作家が、夏目漱石の著作に関する講義をするので、久しぶりに漱石の本を読み返したという。「我ながら良いところに付箋をつけたものだ」と自画自賛していた。付箋をつけるところが変わらないというのは、一見、正しいように思える。しかし、数十年経っても付箋箇所が変わらないというのは、まるで自分が進歩していないようで、ちょっと残念なように思う。歳を重ね、人生経験が増えるにつれて、当然、本の読み方も感銘を受ける箇所も変わっていくはずだからだ。他方で、古典が読み継がれるゆえんは、時代を超えた普遍性を有するからとも言えるから、先の作家の言った事を否定するのも違うのかもしれない。
 
いずれにせよ、読み返した時、過去に自分が印をつけた箇所にどんな感情や感想を抱いても、それを肯定的に捉えたい。読んだ瞬間に本から何かを受け取った自分がいたことは真実であり、当時の自分と対話するようで、それが愛おしく感じられるからだ。友人の一言であれこれ考えたことをここに記しておく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?