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「⼦供問題研究会」の歴史


 

〇⼦供問題研究会(子問研)が発⾜したのは 1972 年です。  


当時、東京教育⼤学(現筑波⼤学)の特殊教育学科助⼿の今は亡き篠原睦治が、保健所で出会った⼦どもの「俺、普通に⾏きたい」と発したことばに衝撃を受け、知能テストの結果で⼦どもたちを「特殊学級」「養護学校」へと判定していく業務に疑問を持ったことから始まりました。その後、親⼦、教師、学⽣、医師、⼼理専⾨家を巻き込んで、教育⼤学で「教育を考える会」を毎⽉開き、「どの⼦も地域の学校へ」「共生・共育」を考え合っていきます。同時に会報『ゆきわたり』も発⾏するようになりました。(以来、 2024 年 1 ⽉で 571 号発刊し続けて来ています。)  
  1973年に篠原は、教育⼤学から和光⼤学⼈間関係学科の教員になりますが、「教育を考 える会」は、東⼤病院の会議室を経て、 1981 年 に池袋のマンションに場所を移して開いていました。  
 

○「共⽣・共育」を求める大きな動きがあった1970年代後半。

  
1970年代後半、全国各地で「共生・共育」を求める運動が繰り広げられました。ここでは、私たち子問研が関わった運動について記します。
一つ目は、 1977年8月、東京都立城北養護学校の⼩学部2年⽣の⾦井康治君が、「弟や近所の友達と一緒に学校に通いたい」と校区の小学校への転校を区教委に願い出たことから始まった、康治君の転校闘争です。願いの申し出から5年7か月、区教委や学校は地域の⼩学校への転校を拒み続け、康治君は⽀援者と共に校⾨への⾃主登校を強いられるのです。この運動は、ある意味全国闘争化していくのですが、⼦問研は彼の地域への学校へ⼊学の願いを応援しました。( 1983 年にやっと康治君の中学⼊学が認められます。) この康治君の運動のおかげで、以後親⼦が「普通」学級を主張すれば、各地で教委から反対をうけることなく、「普通」学級⼊級が認められるようになっていったのも事実です。      
二つ目は、「 79 養護学校義務化」という施策に反対する抗議行動です。この施策は、「適正就学」の名のもとに「障害」を持った⼦どもたちを「『障害』に応じて」くまなく養護学校、特殊学級へ措置する制度です。滋賀県にある「重い知恵遅れの子どもの施設」⽌揚学園では、教育委員会との粘り強い交渉の末、15年前から子どもたちが地域の学校へ通うようになり、地域との関係も軌道に乗っていたところでした。しかしこの施策によって「また通えなくなる」と危機感を持った⽌揚学園の今は亡き福井達⾬園⻑を始め職員たちが、「義務化」の撤回を求めて文部省と交渉するために、東京の⽂部省までの「東海道500 キロ⾏進」に挑みます。東京にいる私たち⼦問研のメンバーも賛同し、東京での抗議活動に参加しました。
 

○「0点でも高校へ」への挑戦。


1980年代半ば、⼭尾謙⼆⽒が息⼦さんの五⽉君の⾼校進学をめぐって「0点でも⾼校へ」を⾔い出します。点数を採らなければ⾼校進学は無理という私たちの常識、世間の常識への挑戦でした。当時はすでに⾼校進学率は95%前後になっていて、「皆が⾏く⾼校にどうして⾏かれないのか」という問いは、” ⾮常識な”親になることを私たちに突き付けました。⼭尾氏の「来るなと⾔われるから⾏くんだ。来るなというのは差別だ」という名⾔があります。   
そのあと、⾼校受験に挑戦する⼈たちが続きます。伊部朝子さんもその一人です。都と交渉し、別室受験や介護者をつけながらの受験も可能でした。当時、都教委は、定員割れした場合には点数に満たない⽣徒を採る⽅針を打ち出していて、全⽇制に⼊学することもできました。その後、全⽇制⾼校の合否の裁定が校⻑裁量になり、点数を⼀定採らないと⼊学が阻まれることになり、⼊学できるのはいくつかの定時制⾼校に狭められていきました。
 

○定食屋を開き、皆が集まってお話ができる場になりました。


1987 年に⽂京区本駒込に街の中のお店「こもん軒」を開きます。⼭尾謙⼆⽒が、 「ゆきわたり」に街の中のお店の物語の連載を始めたところから、お⺟さんたちも⾃分たち の⾷堂を出す夢を持ち始めたのです。⼦どもたちが成⻑するにつれて、学校から社会に出ていく時、どう街中で⽣きていくのかに関⼼が移っていく時期でもありました。皆で、どんなお店を作っていくかイメージを語り合い、お弁当も出す定⾷屋さんに決まり、物件を探し、 経済的な問題を解決しながら実現していきました。お⺟さんたち 20 ⼈がローテーションを 組み、若い⼈たちが店員として⼊り、皆が同⼀時間、同⼀賃⾦で働くことになりました。    
「こもん軒」は、 2008 年にお店を閉めるまで21年間続け、その間、毎週⾦曜⽇に「⾦曜酒場」を開き、⽉に⼀回「若い⼈の会」を持ち、皆が集まって話ができる場所になっていきました。閉店後は会合の場所として存続し、その後 2020 年の春にお店近くの新しい事務所に引っ越し、今に⾄っています。
2024 年 5 ⽉、⼦問研代表の 篠原睦治が 亡くなり なりました。代わって丸⼦勉が代表を引き継ぐことになりました。
 
 

〇⼦問研の活動の紹介。


・毎月、会報『ゆきわたり』発⾏「暮らしを語る会」を行っています。第3⼟曜⽇の『ゆきわたり』発送の後、「暮らしを語る会」を持ち、 ⾚ちゃんから ⽼⼈までの20人前後の人たちが、近況報告をしながら時間を過ごしています。
・2⽇間にわたって「春の討論集会」を開いています。今年(2024年) で49 回を迎えます。「いつでも、どこでも、分けられない、分けない」「やっぱり、ゴチャゴチャ一緒に居よう!」等のテーマで、教育・福祉・医療の問題を取り上げ、⾃分たちの⽣活に引き付けて考えあっています。その報告も『ゆきわたり』に掲載しています。
・⼤きなイベントとしては夏の合宿があります。 1972 年から数えて52 回になります 。当初は、静岡の⼤井川にある⻘部セミナーハウスで、毎⽉の会では語り⾜りないことを親⼦、 学⽣、教師たちが夜を徹して3泊4⽇の合宿で話しあっていました。その後、5泊6日となり、昼は皆で⼤井川で遊び、⾮⽇常の場ではありますが、「共に」を実践できていたと⾃負しています。2016年に道路⼯事のためにセミナーハウスが閉鎖になり、 2017 年から 山梨県笛吹市の芦川グリーンロッジで 夏の合宿を開くことになりました。⽼若男⼥が参加し、語り合い、遊びまくって、まさしく「やっぱりゴチャゴチャ一緒に居るのがイイ!」の世界を繰り広げています。
・1日の行事としては、春のハイキング冬のクリスマス会を開き、近郊の公園に100⼈近くの⼈が集まり、持ち寄った料理に⾆⿎をうち、遊びに興じています。また、1990年から⻑野県伊那で丸太⼩屋作りが始まり、現在2棟⽬の⼯事が進み、毎⽉第2⾦曜⽇に⼦問研を出発し、⼯事だけでなく、温泉や⼭の春夏秋冬の料理を楽しんでいます。
 
以上、⼦供問題研究会の成り⽴ちや、活動の紹介をさせていただきました。50年の歴史を拾い上げることは難しく、様々な論争、⼤事な発⾔、出来事が数多くあり、これからも、書きこんでいければと考えています。


#どの子も地域の学校へ #共生教育

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