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幕末の大名の領知目録(安政年間)

今回紹介するのは江戸幕府14代将軍の徳川家茂の時代に発給された領知目録です。15代将軍の徳川慶喜の時代には領知朱印状と領知目録の発給はない認識ですので、家茂のものが江戸時代の最後の発給と思われます。

以前違う時代で2度紹介した領知朱印状にあった「目録在別紙」の別紙に該当します。安政7年(1855年)3月5日に発給された篠山藩の領地目録です。

領知目録

国名、群村が記載されて群単位で石高の合計が記載されています。比較的読みやすく、初心者の私でも理解できました。

丹波国多紀郡之内百拾箇村
左に見切れていますが、
高五万八百三拾六石壱斗三升八合
と記載されています。当然といえば当然ですが、細かい単位まで記載するようです。合はお米炊く時に見慣れた単位ですね。

桑田郡内三拾七箇村
高六千三百五拾石弐斗三升壱合壱夕(勺)
夕(勺)の単位は不勉強で初めて知りました。

摂津国
武庫郡之内三箇村
高七百七拾三石七斗七升八合七夕

遠江国
榛原郡之内拾八箇村
高三千四百四石八斗弐升七夕壱才
才という、もっと細かい単位が出てきました。
また村以外に「同所新田」と読める記載があります。新しい田んぼなのでしょうか。

(遠江国)
城東郡之内拾四箇村
高六千八百四拾三石壱斗九升壱合三夕九才

都合六万石

三百七拾九石七升九夕
是者物成帳込高也
七千八百弐拾九石八升九合
是者新田改出也

1つ目は物成は田畑に課せられた税といったところでしょうか。それの帳簿なのかよく分からないので今後調べます。2つ目は新田改で確認された新たな石高のようです。

右今度被差上郡村之帳面相改及
上聞所被成下御判也此儀両人
奉行依被仰付執達如件

安政七年三月五日
松平大隅守親良(花押)
松平右京亮輝聴(花押)

「上聞」は君主の耳にはいることなので、大名側から提出された郡村の帳面を幕府側が改めて、将軍に伝えて、御判が下されたということでしょうか。両人奉行は上記2名のことと思われます。

この2名は当時、奏者番の役職にあった人物です。奏者番は複数人おり、幕府内の礼式を管理しています。その役職者の中から領知目録の確認を行う担当になった人物と思われます。

幕末後の領知

幕末から明治に入ると、幕府から認められていた領知を大名である藩主が朝廷に返還する版籍奉還が行われます。藩知事に任官はされましたが、法的に藩主と領知の関係が断たれた認識です。人によっては江戸時代以前から先祖代々有していた領知がなくなるわけです。その後、廃藩置県で旧藩主は東京居住を強制されます。こうやって歴史の出来事を追っていくと、江戸時代の領知朱印状と領知目録が大名や武士たちを含めて、どれだけ大切なものであったか理解できる気がします。

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