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常陸国江戸崎の領知目録(江戸初期)

今回紹介するのは、江戸初期に江戸奉行・関東総奉行として活躍した青山忠成が慶長8年(1603)に拝領した江戸崎(茨城県稲敷市)の領知目録です。

【内容物】
・江戸崎領知目録
・領知目録の参考書

内容物は江戸崎の領知目録と、この目録の委細を宝暦13年(1763)に明記した参考書です。「圓相君江戸崎領地目録参考書」の圓相君は忠成の法名・圓相院殿から来ていると思われます。

領知目録

(付箋)は後に付けられたものと思われます。

括弧() は付箋部分

(常陸国信太郡江戸崎領之内)
高壱万石
此之分
一、千百三十七石六斗九枡六合  東安中
一、千七百拾弐石一枡九合    西安中
一、弐百八拾弐石四斗五枡九合  青崎
一、八百六拾四石六斗八合    佐倉
一、五百六拾三石七斗一枡九合  古渡
一、五百六拾一石六斗六枡九合  大谷
一、五百五石一斗        奥津
一、八百石四斗八枡八合     信太
一、四百四拾八石八斗四枡八合  犬塚
一、三百四拾四石六斗六枡八合  土岐崎
一、三百五拾八石四斗六枡七合  石川
一、千百拾八石六斗四枡四合   神内
一、千三百七拾九石四斗五枡四合 君山
高合壱万七拾八石三斗四合
但壱万石江余米ハ月末江渡可申所也御請取右之内江相渡申者也
(慶長八年癸)卯四月六日    内修理 花押判
青山常陸介殿
(但此内五千石者馬乗同心給也)

内修理は内藤清成と思われます。忠成と清成は家康の小姓として同じような伝説を持っており、家康から馬で駆けた土地を拝領したと言われています。忠成が拝領したのが現在の東京の青山、清成が拝領したのが現在の新宿(内藤新宿)です。


目録の参考書

目録に関する委細が記載されています。この参考書が書かれたのは、目録の拝領から160年ほど経っています。その間の青山氏の家譜や記録書を基にしています。

宝暦13年(1763)に書かれた目録の参考書

圓相君御領地常陸国信太郡江戸崎領壱万石郷村目録事實参考書

御領地目録本文
一、常陸国江戸崎之内高壱万石之事
一、附札 但内五千石者馬乗同心給也之事

参考
一、本光君御参考御家譜云 慶長六年 内藤修理亮 播磨守(忠成は当時、常陸介のため誤り) 両人ニ与力廿五騎同心百人被仰付候 其後御裏門之同心六拾人被仰付候
一、浅羽殿御記録云 本光君御考書各 慶長六年二月内藤若狭(修理亮の誤り) 青山播磨 両人ニ与力五十騎 同心百人被仰付 御裏門方之同心六拾人被仰付上総下総両国之検知可仕之㫖被仰付此之年ハ与力同心供御蔵米也 慶長七年ハ常陸国江戸崎ゟ申所ニ而知行拝領仕候与力者被命其知行罷在候

本光君は青山忠貴の法名です。忠貴は5代将軍綱吉から6代将軍家宣の江戸中期にかけての人物です。兄で浜松城主の青山忠重の養子となっていましたが、家督を継ぐことなく亡くなりました。忠成の曾孫にあたります。存命中は家譜の作成に尽力していたようです。浅羽殿はどのような人物か分かりませんが、同じく記録をまとめていたと思われます。

2人の記録では多少違いがありますが、忠成と清成の下に各々200人ほど家臣が付いたようです。慶長6年(1601)に上総と下総の検地を命じられ、行っています。翌年、江戸崎の知行を拝領しています。


宝暦13年(1763)に書かれた目録の参考書

一、泰雲君御自筆御書云
常陸国江戸崎領壱万石此内五千石者我等初而拝領仕候五千石者馬乗同心ニ給廿五人分
従 圓相君 泰雲君迄相続而与力同心御預被成候儀 御家譜ニ有之且元和五年江戸崎代地大門新田被下候御書付写有之候得ハ泰雲君亦江戸崎御領知也 御二代供江戸崎御領知ニ而同心給之事無疑歟

一、慶長八年癸卯之事
浅羽殿御記録 慶長七年ヨリ与力同心知行江戸崎ニ而拝領仕訳有之御領知目録ハ翌八年也年序相應
一、青山常陸介殿 内修理在判之事
本光君御参考御家譜 浅羽殿御記録共ニ慶長六年両人連署判形被仰付ゟ有之此書付ハ八年也修理亮殿以其職御同席被差出候御領知目録ニ而年序事實供相應是又無疑歟

宝暦十三年 御考

泰雲君は青山忠俊の法名です。忠成の次男(長男・忠次は早世)です。忠俊の書にも江戸崎で拝領した1万石の内、5千石は馬乗同心の25人に給したと記載があるようで、これは事実として疑いないだろうと書いてあります。

目録が書かれたのが慶長8年4月というのは、慶長7年に江戸崎を拝領した記録があることから年数として相応であると記載しています。

内藤清成(内修理)の判によって領知目録が出されていることに関しては、慶長6年に忠成と清成は老中(連署)となっていることから年数事実共に疑いないだろうと書いてあります。

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