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斑鳩巡礼ー塔の美しさ、法起寺①

 佇む御姿を拝む前に自分の足を使って歩いてこそ、みほとけのありがたみが分かるものだ。という考えのもと、ひとつ手前の大和小泉駅で電車を降り、そこから畦道をなぞりながら法起寺、法輪寺を巡り歩いた。午後は法隆寺町の古路を通って中宮寺、そして法隆寺を巡礼した。私が歩くことにこだわる理由は、参拝前にその土地に馴染みたいという思いもある。その地で悠久の時間を経てきた古刹に参拝する前に、その地の空気を身に行き渡らせ、その身を馴染ませた空間の中で建築や仏像を捉えたいのだ。近所遠方に関わらず、最も手っ取り早くその土地の風土を理解する方法は、時間と体力を使って歩くことだと思う。特に斑鳩のような土地全体に歴史が息づいているような場所は歩き回らないと到底理解が及ばない。そう感じるからこそ、今回の巡礼も歩くところから始まった。

大和小泉駅から西へ進み、裏路に入ってしばらく進むと、西方に法隆寺の五重塔が眺望され、北方には縫うような畦道の先に法起寺の三重塔が現れる。このあたりは小さな林や岡が多く、その中に佇む古塔は実に見栄えする。田園にそびえ立つ塔の相輪を眺めながら、法起寺へと細い畦道を辿った。塔はどうしてこうも美しいのだろう。堂宇とは明らかに異なった趣きがある。伽藍建築の中でもどこか特殊な風情をたたえている。それはおそらく、空への憧れだろう。しっかりと地を踏む仏堂に対して、塔は天を目指す意気込みを感じる。上へ上へと伸びた先には金銅の相輪が力強く立つ。瓦よりも硬く冷たい感じのさせる金属が、塔の最上を終焉させているところが重要だと思う。天空に対する憧憬のほかに、反抗ともとれる自我を感じる。古塔に人為の尊さを感じる所以である。高所とはそもそも人間にとって及ばぬ存在であり、脅威であろう。それは文字通り手の届かない存在であり、高所から落ちれば生命も危うい。だからこそ背の高いものには本能的にそわそわした高揚感を抱くのだろうと思う。古寺の仏塔に多幸感にも似た気分の高揚を感じるのも、この本能に由来するものと思われる。それくらい、塔には芯にうったえる魅力がある。

 こんなことを言っては失礼にあたるが、法起寺は荒廃しているところがいい。このような著名な古刹で、ここまで荒廃している寺院もそうそうないだろう。特に南方から参詣するとこの退廃の幽玄を味わい尽くすことができる。これは法起寺の魅力であり、斑鳩の魅力であろう。かつては法輪寺も相当頽廃していたそうだが、今では整備されて清潔な寺院になっている。唯一斑鳩の雄大な退廃の美を残しているのが、法起寺だと思う。どうかこのままであってほしい、恐縮ながら訪れるたびにそう願ってしまう。都城から離れた儚い思惟の空間として、そして朽ちゆく定めの旧都として、頽廃した格別の異空間として"残って"欲しいという、そんな矛盾した感慨を抱かざるを得ない。


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