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身体は右へと進む日常のなかへ

うん!と何かと真正面から向き合うときは、意気込みと少しの覚悟とお腹の力がなんだか必要で、スタートの1歩が重たくなる。このnoteのように。

だから気負いせず、ゆるゆると始めることに決めた。完璧主義な私としては、なかなかチャレンジングなことだ。

私は日本の北を上にした時に、右の方に住んでいる人間ぽい形をしたものだ。

それなりに生きてきた。履歴書を見ると、わりと綺麗に見える生き方をしていると自分ながら思う。

ここで思い出すことがある。大学生の頃、ひとりでふと生きてみたくなくなって、単身アメリカに行った時のこと。(1年弱LAにお世話になったのだがその時の話はまた今度したためよう)

現地で知り合った、私よりふた周りくらい年上の女性に、私の外側の人生を伝えた。そうすると、言われた。「何も苦労してきてない。あなたより苦労している人はたくさんいる。悩むなんて贅沢だ」と。

その時の私の反射的な感情は、「え!」だった。それまで自分の人生が当たり前だと思っていたし、私なりに苦労も努力もしてきた結果だったが、他者から見たら羨ましい内容だったのだと。その客観性をもらえたことは大きかった。

でもその後の私には、重たい泥水みたいなドロドロした感情が渦巻く。「お前なんも私のこと知らないくせに、いじめにあったことも、死にたくなったことも、沢山あるのに。頑張って頑張ってきた結果なのに」そんな気持ちばかり溢れ、結局その人とは離れた。

まぁ当然なのだが。他人から見た自分なんて、所詮そんなもんだ。履歴書を読んでも、適性検査の結果を見ても、その人自身からその人なりの人生ストーリーを聞いたとしても、その人の人生そのものを、その人の日々の感情のゆらぎを、積み重ねてきた日々を、まるっと「理解」することはできない。できたとして、「理解したい」と思うことか、「理解できているという勘違い」だ。

そんな履歴書には書けなかった、行間の、日々の気持ちのさざ波を、ここには書いていきたいと思う。

誰のためにならなくてもいい。まずは自分の気持ちを見直すために。そのうち、誰かの励みになれたらと壮大な綺麗事を書いてしまうとするあたり、やはり優等生でいたい自分がいるなと思う。

ということを朝の通勤電車で書き連ねた。
身体は右へと進む。気持ちはどこに向かうのか。

というところで、おあとがよろしいようで。

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