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【短編小説】9/29『甘いひととき』

 彼氏が最近お菓子作りにハマっている様子。撮影用に作ったお菓子をお裾分けしてくれた。
「どうすか? 旨いっすか?」
「んぅ、おいひいでふ」
 ひとくちかじった瞬間に聞かれて、もごもごしながら答える。
「なんすか、可愛いですか」
「ほれは、ひらないけど……」
 美味しいんだけど、口の中の水分全部持ってかれる系パウンドケーキだった。ちょっと、なかなか飲み込めない。
「あっ、お茶持ってきます! 紅茶でいいすか?」
 ソファから立ち上がる彼に、うなずいて返事をした。

 お付き合いを始めてからもうすぐ4年目になる彼は『FourQuarters』というアイドルグループに所属している、前原紫輝さん。私より18歳も年下だけど、子供のころからお仕事してるからか考え方とか行動力は私よりも大人びてる。そろそろ30歳近いから、普通に大人なのだけど。

「どうぞ」
 紫輝くんからカップを受け取って紅茶を飲む。ようやく口の中が湿って喋れるようになった。
「ありがと。美味しいけど、ちょっと水分足りないかも」
「ですかね、やっぱ。ちっと焼きすぎたなー」
「難しいよね、お菓子」
「そう! 料理は結構目分量とかでもいいんだけど、お菓子を目分量で作ったらめちゃくちゃマズイのできちゃって」
「スポンジケーキとかだと、膨らまなかったりするし」
「そーなんすよー。いやぁ、もうちょっと練習が必要だなー」
「大変だね」
「うん。でも楽しくやれてるから。事務所移ったらまた違うだろうし」
「もうすぐか」
「もうすぐ。早かったー!」
「忙しかったもんねー」
「ホント。色々お待たせしてすみません」
「いえいえ」
「結婚も……するする詐欺みたいになっちゃって……」
「そこは別に……最初からわかってたことだから」
「いや、鹿乃江(カノエ)さんが良くても俺が良くないんですよ。誰かに取られちゃったらヤだし」
「今更そんな」
「わかんないじゃないですか。俺が頼りなくて心変わりするかもしれないし。……しない、よね?」
「しないしない。紫輝くんじゃなきゃ嫌だし」
「うー」
 紫輝くんは甘えるように唸り、抱きついてきた。
「お疲れ様」
「……うん」

 彼が所属しているグループを卒業し、事務所を辞めると発表したのは半年ほど前のこと。グループ自体解散になり、事務所に残る人と辞める人とに分かれるらしい。
 仲違いが原因とかではなく、それぞれにやりたいこと――人生の目標が新たにできたという。
「まぁ、仲間であることに変わりはないから……」
 それでもやっぱり、ちょっと寂しそう。
 それを紛らわすためにお菓子作りを始めたら、案外楽しかったみたいだ。
「ホントは、退所後すぐに籍入れて……って思ってたんだけど、それを理由に辞めたとは思われたくなくて」
「そうだねー。ダブルでショックだろうし、落ち着いてからのがいいと思う」
「はぁ……」
 珍しくため息をついて、私に体重を預けた。よほど疲弊しているようだ。
 普段は男らしくて頼りがいがある人なだけに、なんだかレアな体験をしている気分になる。いや、一般人の私の彼氏が年の離れた現役アイドルって時点でレア体験なんだけど……。
「……鹿乃江」
 急に名前を呼ばれて心臓が跳ねる。
「はい」
「次、何食べたい?」
「はい?」
「お菓子さ、次何作ろうかなって」
 なんだ……ちょっと甘い展開を期待しちゃったじゃないか。
「まずは基本のパウンドケーキを作れるようになってからかなー」
「やっぱそっかぁ」
「それができるようになったら、応用編で味を変えてみたり……あ、生地を冷凍させて作るクッキーは簡単だよ。あとマグカップで作るカップケーキ」
「……なんでも知ってるんだね」
「だいぶ偏ってるけどね。紫輝くんだって色々知ってるでしょ」
「うーん、そうでもない」
「そうかなぁ」
 年齢にしては経験値高いし、いろんなこと知ってると思うんだけど。
「退所して移籍したら、いまより少し時間に余裕できると思うのね」
「うん」
「そしたらどこか、旅行行かない?」
「いいねぇ。楽しみ」
「日程早めに決めれば、平日でも休めるよね」
「うん、大丈夫だよ」
「あとは、新しい事務所での仕事が落ち着いたら一緒に住む家探して〜」
「夢は膨らむねぇ」
「夢じゃなくて計画だから」
「そっか。じゃあ予定立てるの楽しみにしてる」
「うん」
 二人でしばらく寄り添って、気持ちが満たされたところで冷凍クッキー作りに取りかかる。
 私たちはいつまでもこうして、二人で幸せに暮らしていく。

*ふたりの馴れ初めは長編小説『前の野原でつぐみが鳴いた』でどうぞ。
https://ameblo.jp/komine-kanata/entry-12676610487.html?frm=theme

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