【短編小説】12/20『ラティメリア・カルムナエ』
生まれて初めて見たシーラカンスは、なにかの液体に漬けられ、水族館の片隅に展示されていた。
下からのライトに照らされた色の抜けたその姿がなんとも不気味で、幼心に恐怖を覚えた。
それがトラウマになったのか元からの性質なのかはわからないけど、いまだに海の生き物が苦手だ。
水揚げされて店に並んでいるのもちょっと怖いけど、水族館などで泳いでいるのはもちろん、その姿を映像で視るときも恐怖心が湧いてくる。
日常生活で困ることはさほどないが、近々困るであろう状況がやってくる。
ずっと憧れて、片想い中だった先輩に誘われたのだ。「水族館のチケットあるんだけど、一緒に行かない?」と。
もちろんその場で「行きますっ!」と答えた。瞬時にどの服の組み合わせで行こうってコーディネートまで組み上げてた。だからその一瞬は忘れていた。
私は水族館が、怖い。
「練習ってなによ」
「だから、先輩と水族館に行くときの……」
「いらないでしょ練習なんて」
親友にお願いしたらそう言って渋られた。確かにいらないと思うよ、苦手じゃなければさ。だけど私、水族館怖いんだよ。他にそんな人いるって聞いたことないし、えー綺麗じゃんとかって言われて取り合ってももらえなかった。
今回も同じだ。
「大人になってるんだし、大好きな先輩と一緒なんだから大丈夫なんじゃない?」
みったんはそうやって言うけど、怖がらない自信がない。
身の毛がよだつ体験をしたことがあるんだもん。尻込みするのは当たり前じゃん。
せっかく先輩に誘ってもらったのに断るのなんて嫌だし、怖がるのだって失礼だよ。
でも一人で行く勇気は出なくって、結局そのまま当日を迎えた。
「おはよう」
「おはようございます」
いつもの挨拶が新鮮に感じる。だって今日は、二人とも私服だ。
先輩とデートできるドキドキと、水族館に行くの大丈夫かなのドキドキが混ざって、どっちがどっちかわかんない。
先輩と一緒に窓口でチケットを千切ってもらって、中へ……な、中へ…………怖い。
入口付近から館内は薄暗く、壁には水槽が埋め込まれていて、だんだん深海に潜っていくのでは? という感覚になる。
足がすくんで動かないとかあるんだ。
次の一歩を踏み出せないでいたら、先輩が不思議そうにこちらを見た。
言うなら今だ。なのに言葉が出ない。
「……行こ?」
先輩が、左手を差し出してくれた。えっ、それって……。
恐る恐る乗せた右手を優しく包んで、先輩がゆっくり歩き出す。
恐怖のドキドキが、トキメキのドキドキにかき消された。
大丈夫……だ。先輩と手を繋いでいたら、水族館も怖くない。むしろキレイ。
暗い空間の中に浮き出るような水の青色。水槽の中を覗いていると、先輩と二人きりで海中散歩してるみたい。
私、水族館恐怖症を克服できたかも……!
先輩と一緒なのと水族館怖くなくなったのが嬉しくて、舞い上がってたのかもしれない。そして、油断してたんだ。
だから忘れてた。この水族館に、アイツがいることを。
「あっち、珍しいのが展示されてるみたい」
「珍しいの……なんですかヒッ!」
通路を曲がったすぐの空間に、ひとつの水槽があった。その中には……思い出したくもない、色褪せた【行きた化石】がジッと佇んでいた。
やっぱり怖い……!
再認識したら、もうダメだった。顔があげられなくて、ずっと俯いたまま歩くしかなかった。
先輩に申し訳なさすぎる。だってヒッ、って言っちゃったんだよ、ヒッ、って。さいあくだ。
休憩がてら入ったカフェで向かい合う私たちに会話はない。でも、先輩が気を遣って話しかけてくれた。
「ごめん、楽しくなかった、よね」
「ちっ、違うです。あの……実は……」
私は先輩に幼少期の話をした。
液体に浸かったシーラカンスが怖かったこと。少し成長してから遠足で行った水族館で、足がすくんで入口から動けずに泣いたこと。それより更に成長したから克服できていると思っていたけど違ったこと、そして……。
「先輩と一緒にお出かけできるのが嬉しくて、断るのが嫌で……」
私にとっては告白のようなその言葉を、勇気を振り絞って口にしたら、先輩は少し照れたように首をさすった。
「場所を決める前に誘ったら良かったんだよね。チケットがあるって言ったら、断られないかなって考えたから……俺が悪い。ごめん」
「いえっ、大人になる前に改めて確認できて助かりました」
先輩と一緒だったから怖さも半減して一応楽しめたし、再確認もできた。
「だから、今度ぜひリベンジを!」
「いやっ、もういいよ。大丈夫」
あ、振られちゃった……。そりゃね、悲鳴あげたもん……。
「今度は、二人が行きたいとこに行こう。どこがいい?」
「えっ……」
良くも悪くも、水族館は思い出の場所だ。
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