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【短編小説】9/19『□夫の氏 □妻の氏』

「どっちでもだいじょぶだよ? オレ三男だし、兄貴んとこ息子いるし。と、うちの親も言ってた」
「そっかぁ。うーん、悩む」
 婚姻届を目の前に、腕を組む。必要事項の中で、【夫の氏】【妻の氏】のチェック欄だけが埋まっていない。
 どちらにするか決めかねているのだ。
「いや、なんか、私の時代の刷り込みっていうか……結婚したら女性は男性の苗字になる、っていうのがこう、一般的だったのよ」
「あぁ、そうね」
「だからちょっと、憧れてたのはあるんだよね」
「えーでも、オレの苗字、同じ人かなりたくさんいるけど、そっちめっちゃ少ないでしょ? 残したほうがいいんじゃない?」
「子孫が繁栄するかわかんないのに?」
「繁栄しないとも限らないでしょ?」
「うん、そうか」
「お義父さんとお義母さんはなんて?」
「“あなたの好きにしなさい”って」
「……まぁそうなるよね」
「うん。うちの家系、みんな優柔不断だから……私もなんだけど」
「あとから変えれたら便利なんだけどね」
「できなくはないけど、手続きが面倒みたい」
 プロポーズされたあとに調べ済みだ。
「だったら最初に決めちゃったほうが楽か」
「うん。変えると都度変更手続きが必要になるからさ、なるべく一回で終わらせたいんだよね」
「あー、わかる」
「え? 結婚歴あるの?」
「ないよ。引っ越したときにさ、色々やるじゃん。銀行とか保険証とか各種通販とか。それの苗字版でしょ?」
「うん、まぁ、そんな感じかな?」
「そう考えると、まぁ面倒だよなって。住所と違って確実に全部変更しないとなんないし」
「ふむー。あぁ、でも、あなたが私と同じ考え方の人で良かった」
「うん。いまどきねぇ? 絶対オレの苗字になってよとか、言わないよそんな。受け継がなきゃいけないほどの家系でもないし」
「そんなことはないと思うけどー……」
 夫婦別姓が認められているなら話は早いのだけど、残念ながらこの国ではそこまで新しい考えの持ち主は政治に関わっていないようだ。
「いまどきどっちかの苗字にしないと婚姻が認められないとか、古いよね」
 彼も同じことを思ったみたいで、口に出した。
「ねー。まぁ手続きとか面倒なんでしょ、知らないけど」
「提出までもうちょっとあるから、ゆっくり考えよう」
「うーん。そうこうしてるうちに当日になっちゃったりするんだよね」
 二人ともあまり笑えないのは、それぞれに思い当たるフシがあるからだ。
 婚姻届を出す日は、私たちが付き合い始めた日にすると決めた。その日まであと一ヶ月程度。
 彼が意外に記念日なんかを大切にするタイプで、その日に婚姻届を出したいから、と逆算してプロポーズしてくれたらしい。
 複数のタレントさんのスケジュールを管理してるだけあって、私とは脳の構造が違うのだなぁと、その話を聞いた時に感心した。
 そんなこんなで数日悩んで、初恋した小学生みたいに彼の苗字に自分の名前をくっつけて何度も書いたりして、ようやく決めた。
「やっぱり、いまの苗字を持っていたい」
「うん、いいと思う」
 彼は予想通り二つ返事で了承してくれて、そうしてようやく、チェック欄を埋めることができた。

 約束の日、0時。
 自宅近くの時間外窓口で受付をしてもらう。
 そうして晴れて、私たちは書類上でも法律上でも【夫婦】になった。
「そっちの変更手続きで手伝えることあったらやるから」
「うん、そうなると、通販サイトとか……いや、自分でやる」
「履歴なんて見ないよ?」
「いや、うん。ねぇ」
「察した。なんかあったら都度言って」
「ありがとう」
 元々同棲していたから引っ越しはしないけど、彼は各種変更対応に忙しそうだった。
 勤め先の事務所からは新婚休暇を取れと言われているらしいけど、まだ人に任せっきりにするのは心配らしく、家に居ても連絡ツールを確認している。
「大変そうだね、マネジャーさんって」
「うーん、慣れてるからそれはいいんだけど、性格的にね、人に任せられなくて」
「心配性だもんね」
「うん。でもそろそろ緩めていかないと……。キミに対しても過干渉になっちゃう」
「別に……構ってほしいほうだからいいんだけど」
「そう? じゃあ有給中はいっぱい甘やかそうかな」
「ふふっ。お願いしまーす」
 どちらの苗字になるかすごく悩んだけど、彼と一緒になれるならどちらを選んでも良い選択だったと思えてただろうな、なんて、彼の腕に包まれながら幸せを噛み締めた。

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