【短編小説】4/23『かのひと』
彼女とはお気に入りの本を薦め合う仲。ただそれだけの関係だとわかっていたのに、僕は彼女に恋をしてしまった。
月に一度、決まった曜日に決まった場所で会う。それだけで満足しなければならなかったのに、惹かれるのを止めることができなかった。
制御できない感情が生まれるなんて、自分でも予想外だ。
会ううちに彼女に恋人がいると知って、淡い期待は泡のように弾けた。
あんなにも会うのが楽しかったのに、いまでは切なく苦しくて、なにを話せばいいのかわからなくって、それでも……会いたい。
この関係が壊れてもいいから、自分の気持ちを伝えようかと思ったこともある。苦しさを抱えているくらいなら、壊れてしまったほうがマシなのではないかと。
できなかったのは、彼女との繋がりがなくなってしまうのが怖かったから。
いまの僕のすべてともいえる彼女が、僕の時間から消えてしまうのが嫌だったから。
読書好きが高じて書店員になった。
「おすすめの本、なにかありますか?」
僕らの初めての会話は、彼女のその質問からだった。
本が好きで読み漁っているうちに、目ぼしい本を読みつくしてしまったそう。たまには他の人の趣味で選ばれた本を読みたいとのこと。
それならばと、そのときまでに読んで面白いと思った最新の本を薦めてみた。彼女は購入後すぐに読み終えたらしく、翌日わざわざお礼に来てくれた。僕が薦めた本をいたく気に入ってくれたようで、また僕のお薦めを聞かれた。
二冊目の本も気に入ってくれて、それ以来、来店時に僕に声をかけてくれるようになった。
彼女は僕が勤める書店と同じ駅ビル内の、コーヒーショップの店員だとあとから知った。
昼休憩時、たまにその店に行って昼食をとるのが楽しみになった。店員と客の立場が入れ替わるの、なんかちょっと不思議で面白いって彼女が言ってくれて、僕は不覚にもときめいた。
しばらくして、彼女から転職すると聞いた。もうこの駅ビルは利用しなさそうです、とも。
最後の出勤日、彼女は僕にいままでのお礼として、彼女が好きだという詩集をくれた。
もう会えないのは残念だったけれど、とても嬉しかった。
お返しに、次に薦めようと思っていた僕のお気に入りの本を手早くラッピングして、彼女にプレゼントした。とても嬉しそうで、でも少し寂しそうな彼女の笑顔が印象的だった。
それで僕らの関係は終わるはずだった。
家に帰るため、バスに乗る。彼女からもらった詩集をめくると、しおりが挟まれていた。
手作りっぽいそのしおりを裏返すと、彼女からのお礼の言葉と、なにかの文字列が書かれていた。その文字列がSNSのアカウント名だとわかった瞬間、飛び跳ねそうなくらい驚いて、嬉しくて、バスの中だというのを忘れて叫びそうになった。
すぐに【登録】の項目から検索をかけて、彼女のアカウントを追加した。送信する言葉も考えてないのに、と慌てて文言を作る。
挨拶とお礼だけの短いメッセージを送信して、アプリを閉じた。
登録名は彼女の本名なのか、コーヒーショップの名札とは違う名前が表示されていた。コーヒーショップの名札はニックネームを書くのが決まりらしく、彼女は彼女が好きな作家の名前を使用していたから、僕は彼女の本名を知らなかった。
すぐに返信があって、これからもお薦めの本を教えてほしいと書かれていた。僕は二つ返事で了承して、それからはお互いのお勧めや読んだ本の感想を送り合ったりした。
毎月決まった曜日に僕の家と彼女の家の中間地点にある書店街で待ち合わせをして、本屋巡りもした。とても楽しく、とても貴重な時間で、その曜日が宝物のように輝いて見えた。
初めて会ってから二年が経ったころ、彼女からもう会えないと伝えられた。
結婚して、違う土地に移り住むのだそうだ。
会えなくなって、メッセージのやりとりも減っていって、彼女のアカウントのアイコンが赤ん坊の写真になったころ、僕らの繋がりは途切れた。
気持ちを伝える代わりに渡そうと思っていた恋愛詩集は彼女に渡せないまま、数年経ったいまもバッグの中で眠ってる。
彼女が薦めてくれた本を読むと、彼女を思い出す。僕にはその思い出だけで充分だ。
彼女が好きな本に囲まれて、僕は今日も生きていく。
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