【短編小説】5/19『恋のマッチメイク』
シャドーボクシングのシュッシュッって口で言うやつ、速度早いぜってのを擬音で表現してるのかと思ってた。漫画の音喩みたいな感じで。
本当はあれで呼吸するのを忘れないようにしてるらしい。
その知識がなかったら、私はずっとシャドーボクシングしてる人のことを誤解したままだった。正しい知識を得るのって大事。
格闘技は痛そうで見てられないから、好んで観戦はしない。
大きな試合の結果がニュースで取り上げられたり、有名選手はバラエティ番組で見かけるから、名前くらいは知ってるって程度。
今日も残業から帰って遅めの夕飯を食べながら視ていたクイズバラエティ番組に、先日新たに世界王者になったボクサーが出ていた。
見た目けっこう好みだなーと思いながらご飯を食べる。
有名大学出身のタレントさんに劣らぬほどの知識に、司会の芸人さんに突然振られた話題に対しての反応も秀逸。
そんなつもりはなかったのに、食事が終わってもうっかり真剣に二時間視て、しっかりファンになった。
番組の最後にボクサーからの【お知らせ】が放送された。念願の夢だったトレーニングジムを開設したそう。
番組終了後に調べてみたら、家から徒歩で行ける場所にあった。ボクサーの出身地がこの辺りらしい。うわー、マジか。
公式サイトには『ダイエット目的で気軽に参加できるプログラム』の案内も出ていた。ストレス過食でちょっとヤバくなってきたお腹の肉をつかむ。
本格的じゃないのならできそうだし、世界王者に会えるなら……なんてミーハー心がうずいて、初回限定の無料体験に申し込んでしまった。
当日ジムに赴くと、男女交えて十数名が受付を済ませていた。参加した女性は全員、私と同類のようだ。
お目当ての【王者】がやってきて、参加者が色めき立つ。
「このジムのオーナー兼コーチの戸上(トガミ)です。体験会にご参加いただきありがとうございます」
丁寧な挨拶に女性陣の好感度が爆上がりする音が聞こえるよう。
内容を軽く説明してくれたのち、レッスンが始まった。
等間隔に並ぶ私たち一人ひとりに戸上さんが指導してくれる。
きっと営業トークだろうけど、筋がいいって褒めてくれた。それだけでモチベーションがあがる。
体験会で味をしめてしまった私は、その後も単発で予約を入れてレッスンを受け続けた。もちろん有料で。
楽しいし、もう少し続けてみようかな、が定期的に更新されて、とうとう入会してしまった。ひと月の利用回数が制限されてる月額制コースでも良かったんだけど、予約してから行かなければならないのが億劫で、好きなときに好きなだけ通えるほうが性に合ってるって理由。
予定が合わないときは他のプロボクサーさんとかコーチの人が付いてくれるらしいけど、私のコーチは初回からずっと戸上さんが担当してくれてる。指名できないのにすごい奇跡。
仕事帰りに気軽に立ち寄れるし、ストレス溜まったときにサンドバッグ叩くとスカッとして気持ちが良かった。
ジム通いを続けていたある日、戸上さんから『試合に出るから見に来てくれないか』とのお誘いがあった。リングサイドの席を用意してくれてるらしい。
観たい! けど、好きな人が殴られるの見るのはツライ。それでも“お誘いを断る”なんて選択肢はなくて、ジムの人たち数人と一緒に観戦した。
戸上さんは極上の強さで危なげなく勝利した。
『勝ったら伝えたいことがある、という方がいらしてるとか』
勝者である戸上さんにインタビュアーがマイクを向ける。
『はい。そちらに座っている方に、お伝えしたいことがあります』
指名されたのは、私だ。
えっ、なに⁈ 何事⁈ と慌てていたら、戸上さんがこちらを真剣なまなざしで見つめて来た。
『僕と、結婚を前提に、お付き合いしてください!』
……えぇっ⁈ ジムではそんな素振り全然なかったじゃん⁈
取材用のカメラが一斉に、慌てる私を捉えた。
いや、撮っていいって許可出してないけど! なにこの断れない空気! いや断らないけど!
口から出たのはなんともオーソドックスな返答だった。
「ふ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします!」
思っていたより腹から出た大きな声に戸上さんが笑い、そして手招きをした。
セコンドのおやっさんが私をリングの上にあげてくれる。
お客さんの拍手と歓声と祝福の言葉、そして戸上さんの腕に包まれて、私は夢見心地のまま戸上さんと一緒に控室に戻った。
「ごめん、断りづらい環境でこんな」
「いえ、一生の思い出になりました」
「終わったみたいに言わないで」
「あ、え、そういうつもりでは」
慌てる私を見て、戸上さんが笑った。
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
たまたまテレビで見ただけの人と縁が繋がるなんて幸運、実際にあるんだねぇ。
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