【短編小説】7/26『うたかた』
あっと思った時にはもう遅くて、私の意識は地面に身体を残したまま宙に浮いていた。
手を伸ばしても掴めるものがなく、身体から細い紐のようなものを出しながら空へ昇っていく。
この紐が切れたら、私、死んじゃうのかな……。
諦めかけたそのとき、不意に腕を掴まれた。
「だいじょぶ……ではないか」
関西弁で喋る男性は私の腕を掴んだまま、私の背中から伸びる紐を見て言った。
「まだ早いな」
「早い……?」
「そう。こっち来るにはまだ早い。帰ろ」
男性は私の手を引いて、地上へ向かう。
「あなたは……」
「ん? 通りすがりの関西人です。怪しくないから逃げんとってね? また飛んでっちゃうから」
そう言われても身体の自由が利かなくてですね。
足はまだ空に引っ張られている。手を放されたら、多分私はまた空へ昇ってしまう。それが怖くて、空いてるほうの手で男性の腕を掴んだ。
「ん。不安?」
男性は私の身体を引き寄せてくれる。
「ちょっと丸くなる感じで、足を前に出して……そうそう。重心そうしてたら、浮かぶような感じにはならん思うから」
両手を巻き付け男性の左腕にしがみついたら、浮遊感が少し軽減された。
「事故?」
「え、あ……多分。歩道橋の階段踏み外して、落ちた気がします」
「あらら。まぁ怪我はしてるやろけど、生きてはいるからだいじょぶ」
「そんなのわかるんですか」
「その紐がね、繋がってれば平気」
男性は右手で私の手を握り、安心させてくれる。
私の身体が横たわっている場所へ着くと、
「ありゃ」
「うわ」
私の身体の周りを、得体の知れない影が何体もウロウロしていた。
「あかんあかん。あんたらには渡されへんから、余所行って」
男性が手で払うと、影は散り散りにどこかへ消えた。
「早いとこ病院運んでもらわんとね」
とはいえ、夜の歩道橋周辺に人はあまりいない。
「誰かおるとええけど……」
言いながら男性は自分の首にかかったチェーンを引き寄せた。先には細長いホイッスルが付いている。
大きく息を吸い込んで、ホイッスルを吹いた。
『ピイィィィィー!』
高い、鳥の声のような音。
「波長が合う人にしか聞こえへんのやけどね」
何度目かの吹笛に、道の向こうから人が来た。倒れている私の身体に気づき声をかけ、どこかに電話をする。
ほどなくして、車道の向こうに赤い回転灯が見えた。
安堵の笑みを浮かべる男性と一緒に、救急車の屋根の上に座って移動した。
彼は【ヤマザキ】さんという名字で、だいぶ前に亡くなって成仏済み。いまは天界に住み、私みたいに魂だけ投げ出されて困っている人がいないか見回るお仕事をしているのだとか。
「そういうお仕事があるんですか」
「うん。けっこうなんでもありなのよ。生まれ変わって身体を持つと忘れちゃうんやけどね」
「へぇー、面白い」
生死を彷徨っているかもしれない状況なのにのほほんと会話できているのは、ヤマザキさんのおかげだ。
私の身体は病院で色んな検査を受けた。
病院に駆けつけた家族への説明に同席する。
入院することになったが命に別状はなく、意識が戻れば安心、らしい。
「戻ったら、ヤマザキさんのこと忘れちゃいますか」
「忘れてええよ。普通は会わんのやから」
「……」
「なにぃ」
「いえ、なにも」
感じるはずのない温もり。動くはずのない心。起きたら忘れる夢のような時間。
「お礼がしたいんですけど」
「ええよ、別に」
「でも」
「じゃあ、天の神様にお願いしといて。なんかええことありますようにーって」
ヤマザキさんは笑って、そのまま朝まで一緒にいてくれた。
明け方過ぎ、私は自分の身体に戻った。
ヤマザキさんは私が無事に戻れるまで、見守ってくれていた――
――目が覚める。
周囲がバタバタ騒がしい。
身体が動かしづらい。なんかコードたくさん出てるし、たくさん寝たはずなのに眠い。
ここどこ……?
思い出そうとして、誰かの顔が一瞬浮かんで消えた。
そういえば、なにか夢を見ていた気がする。
すごく優しい男の人に助けてもらう夢。
起きたらすぐ忘れてしまうような夢。
このまま眠ったら、また……。
期待してたのに、夢は見なかった。
意識が覚醒して、状況を知った。
仕事の帰り道、いつも使う歩道橋の階段が破損していたのに気づかず、私は落ちた。
偶然通りかかった人が私を見つけて救急車を呼んでくれたけど、発見が遅かったら危なかったって。
その人は病院まで同行してくれたそうで、家族が連絡先を聞いてくれていた。
動けるようになったらお礼をしなくては……。
『天の神様が――』
男の人の声がして、すぐに聞こえなくなった。
今度、行きつけの神社でお願いをしよう。なぜか気になる存在が、誰なのかわかりますようにって。
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