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ゼロからトースターを作ってみた結果

イグノーベル賞って知ってます?
研究を通して、人類の発展に寄与するだけでなく笑いも提供した人を称えるものらしいです。我らが北大の教授も数年前に受賞していましたね。

イグノーベル賞の記事を読んでいたら、称えられたとしても恥ずかしくて(?)授賞式には行かないひとが多いようです。
そもそも、「イグノーベル」の由来は英語のignorble(恥ずべき、不名誉な)、本家ノーベル賞に否定の意味の“ig”を足したもの、であることもあって嬉しくない訳じゃないけど基本的には恥ずかしい、みたいな感情なのでしょうか。

僕が貰ったら、周囲に対して自慢に自慢を重ね意気揚々と出席します。来世はイグノーベル賞目指して頑張ります。

そんな不名誉?の証ですが、継続的に受賞している国が2つあります。
日本とイギリスです。
評価基準等、詳細はわかりませんがどうやらこの2つの国の人にとってはイグノーベル賞はとても価値のあるものだそうです。日本でも、結構大きく報じられますしね。

今回の本は、もう一つの国、イギリスの大学院生(当時)の卒業制作をまとめたものです。邦題は、なんだかYouTuberの動画のよう。これではない著書にまとめられた研究でイグノーベル賞を受賞しているのですが、「じゃないほう」を。

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『ゼロからトースターを作ってみた結果』

「自分の力でトースターをつくることはできなかった。せいぜいサンドイッチくらいしか彼には作ることができなかったのだ」 ダグラス・アダムス(ほとんど無害 1992)

トースターがどうやってできてるか、知ってるかい?僕は知らなかったんだ。
正直、どうやってできていようが美味しいトースターが食べられれば僕はそれでいい。
でも、たしかに冒頭の小説のセリフにあるように、僕たちは自分で思ってるよりも無力なのかもしれない。だって、4ポンドの電化製品の作り方さえしらないのだから。
だったら、本気をだしてゼロから作ってやろうじゃないか。部品すら、買うのではなく作り出してやろうじゃないか。

そんなチャレンジングで、ある意味無謀な、研究という名の冒険の一部始終をここに記した。そんな本だ。

そもそも、なんで一体トースターなのかって?
たしかに、世の中にはありとあらゆるもので溢れかえっている。その中で、人間にとって本当に必要なものってどのくらいあるだろうか。きっとそんなに多くはないよね。
そんな今の世界の中で、僕にとってトースターは、必要と不必要の境にあるものの象徴なんだ。そしてそれは近代の消費文化の象徴でもあると思うんだ。
だから僕はそれをゼロから作ってみようと思う。

まずなにが大事かって、「トースター」の定義だよね。トースターっていったっていろんなものがあるし、火で食パンをあぶったらそれもトースト、つまり火自体すらもトースターっていえてしまうかもしれない…
まあここでは、「必要と不必要の境界」としてのトースターなのだから、身近にある家電量販店で売っている3.94ポンド(約500円)の製品を完全に再現することを目指してみよう。

買ってきたそのトースターを分解してみると、驚くほどの数の部品に分けられた。一体いくつだと思う?

なんと、404個!!

あんなに安いのにこんなに多いのか…そんで今からこれを作るのか、長い旅になりそうだ…

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…なんて調子で細かく書いていたら非常に長くなりそうなので、海外ドラマの字幕に引っ張られた文章を書くのはここまでにします。(SUITS観すぎた…Amazon Primeありがとう)
結局著者は部品の原材料である鉄、マイカ、銅、ニッケルを一から作り出そうと四苦八苦します。個人的にはジャガイモからプラスチックを合成するところが見どころです。

結果として出来上がったのは、見てくれの悪い、電気を通したら一回で壊れてしまった「トースター」でした。壊れる瞬間もコメディチックに描かれていますが、この本の核は、制作過程自体以上に途方もない経験を通して著者が得た所感又はそれを得るまでの道程にあります。

彼は約15万円かけて「トースター」を作ったわけですが、市場価格の3.94ポンドという破格の安さに疑問を持ちます。原材料の調達から、製造、マーケティングを通してようやく消費者に届くのにどうしてこんな値段で取引されるのか。

「製品の本当の『コスト』は隠されている」

そしてその隠されたコストの正体は、ゴミや公害だとしています。例えばニッケル生成の過程で排出される二酸化硫黄は生態系に大きなダメージを与えるし、銅の鉱業所では多くの有害物質が河川に流出します。しかし、それらを明確に所持する人等いないため汚染の「対価」は支払う必要がない。それでも、その「代償」は誰かが被っている。
(日本の四大公害病は、それが顕在化した代表例にあたると思います。)

ではなぜそのような無責任が存在し得るのか。
その根源は、私たちが抱える「貧しさ」にあると言います。一般的には貧困とは、居心地が悪く、健康にも悪い、長い生きできないような環境を強いられること等でしょうが、それは必ずしも絶対的なものではなく、「貧しい」の意味するところは時代や場所によって異なる相対的なものなのです。「裕福」も然り。
例えば、5年前に買ったPCに不満は持っていなくても、隣の同僚がもっと良い最新のものを使っていたら欲しくなってしまうような感情の事。
このことを「人には無限の欲望が備わっている」と考えているわけではありません。
「誰も貧しい側にはいたくない」と思うが故に、愚かな消費の連鎖が終わらないのではないかと考えている、と述べています。
人は皆、良いものを安く買いたいと思っている。その意志を咎めているのではなく、消費に対する責任を、その「貧しさ」のしわ寄せが環境及びその周辺住民の健康に及んでいるという結果を、もっと個人が考える必要があるのではないか、というのが著者の結論でした。

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「貧困は相対的」
「隠されたコスト」

この本のメッセージは、僕が学生団体や専攻の授業で学んだことと似ていました。


フィリピンの貧困地区を訪れた時、何だか楽しそうに生活している現地の人たちを見て、「本当に貧しいのかな?」なんて思ったりしました。それまでのイメージでは、なんだかもっとどんよりとした空気感を想像したいましたが、現地では「貧しさ」の印象とは違うものを抱きました。
日本の学校で学ぶ「貧困」は、たぶんどこでも同じような切り口でしかないのではないでしょうか。(故に相対的であるわけですが)
異国・現場ではパラダイムが異なるので物事が違う面から見ることができる、そんな経験をしました。

この本では「隠されたコスト」は廃棄物問題に収束させていますが、一般的に言う貧困と結びつけるならばフェアトレードは同じ意味合いを持つものになります。劣悪な環境で労働を強いられる零細農家の賃金にそのしわ寄せがきているわけですが、国際協力に少なからず携わっていた当時でさえも対立し得る感情を抱きました。
「日本企業の安いチョコレートと、フェアトレードの高めのチョコレートが並んでたら、安いほうを買うのが自然だよなあ…味も日本のほうがおいしそうだし。」
一般商品と並ぶと、明らかに高いフェアトレード商品に貧困問題の打破となる可能性をあまり感じませんでした。経済性が問われる土俵では戦略的に分が悪く、僕を含む一般的な人々にとって後者を選ぶことはとても不自然じゃないかと。背景を知っていて頭で理解できても行動に移すことはなかなか難しい。複雑な感情です。

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環境問題や貧困問題は、あまりにも大きくて複雑だと思っています。知れば知るほど、事の難しさに打ちひしがれます。多くの人が必死に考えた結果の今でも、どちらも最適な結果にはなっていないように見えます。

ただ、打ちひしがれているだけでは何も変わらないのは事実。

この著者は実体験を発信することで人々の認識を変えよう、影響を与えようとしました。その実体験の極端さと鮮明性こそが、発信力の伴う一つの「メディア」として機能した要因なのかなと思います。
雑多な情報を溢れさせている現代メディアの中で、「問題解決としてのメディア」として参考にすべきではないでしょうか。

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