日記 17/06

昨日の夜くらいからまたメンタルが戻ってきた。いつものことである。大して落ちたというほど落ちてもいなかったのだろう。自分の中では落ちていたが、最近比較できるようになってきて、それほどでもないなと思う。他の人と比べて大したことないから大丈夫だと思うのはいいのかわからないが、まあいい。
こう考えると、あらゆることがいいことか悪いことか判別したがる自分の性格が見えてくる。
日記を書いていて、このような文を書いたことが幾度あったか知れない。
予測変換が自分の書くことを型に嵌めようと画策してくる。便利な一方、おまえの考えていることとは違うんじゃという感情も浮かんでくる。

今はまだ午前中なのだが、なんで日記をもう書こうかと思ったかと言うと、一昨日書き忘れたことがあったからである。一昨日のライブで、バンドのリーダー的存在が、「消えたくなる夜があるよね」みたいな話を最後にしていた。文章を書いたりテレビで話したりするよりも、音楽のリリックに載せて歌っている時が最もそれを表現できている気がすると。自分は、消えたいと思うことはあまりない、というか殆どないが、破滅してしまいたいみたいに思うことはよくある。デカダンス?AKIRAみたいな退廃的な都市が好きだし(激浅サブカルボーイであることがバレるのであまりAKIRAの例を挙げたくないが)、闇堕ちデクのような主人公が好きである。堕落論という題名には惹かれるし、汚れつちまつた悲しみににも惹かれる。ただそれは表層的なものである。

久しぶりにかれの日記を読んだ。ずっとページを開いていたのだが、パソコンが休みなく働いていて悲鳴を上げ始めたので、ちゃんと眠らせることにした。
日記は適当に書こうと思った。テキトーに書いているつもりだが、気づかないうちにじぶんでじぶんを囚われさせ始め(日本語おかしい気がするが)、こう書かないと、ちゃんと書かないとと思ってしまいがちなんだと思う。
テキトーと適当と、「/tekito/」にあたる表記が難しい。

僕は録音された自分の声がとても嫌いだったのだが、ポッドキャストともなると流石に諦めがついたというか、慣れたというか、意外と悪くないのかも、と思えるようになり、よりテクニカルな部分、喋り方や相槌の打ち方が気になるようになってきた。

2024.06.06 向井かける

ここにすごく共感した。ポッドキャストは三日坊主で終わったが、自分に折り合いをつけるようになったのだなということを認識できたので、それは良かったのだと思う。大して聞きなおしたわけでなく、話しっぱなしだったのだが。


働いたときに、自分のどの分人が適用されるのかということが、去年から今年にかけての疑問の一つだったが、新たな分人が適用されるというのが現時点での答えのような気がする。
当たり前と言えば当たり前。それが今までのどれと一番近いかというのが本題であろう。それで言うと、バイトの自分ではなかった。大学の自分でもないし、小4における自分が一番近かったような気がする。上の人に合わせにいくとか、その人との関係性を重要視するとか。ただ、そんなに近い感じもしない。

今更ながら、これは日記ではないなと思う。というより、思考日記というような名前が適切かもしれない。疲れている時は単なる出来事の羅列になるときもあるが。

怠惰は欲望への逃走。

大学を出て逍遥していて、非合目的的な時間、生き方のよさ、大切さを感じた。だが、たかやくんと話している時は、逆の立場になっていた。大学1,2年の時を中心に、社会の役に立たないといけない、このまま無為徒食ではいけないという思いが強くあった。最近はそれが当時よりは薄くなっているが、おそらく今もあるのだろう。しかし、これは自分がそう思っているというより、そう思わないといけないと思っていると言った方が適切なように思える。

特に具体的に憧れの人がいるわけでもなく、ただ「カッコよく」生きたい、それが人生のモットーだ、という人は、実際は、あまり多くはない。時々そういう人に出会さないでもないが、どことなくナルシシスティックで、逆に「カッコ悪い」感じさえする。

「カッコいい」とは何か 平野啓一郎

散歩して寺に辿り着いたら、警備員に英語で話しかけられた。他にもそういうことがあり、そういう時に英語で答えられるようになりたい。
その後、寺の中が覗けることを教えてもらい(いつもは見られないらしい)、公務員になれと強硬に主張された。うるせえと思いつつ、そう思わなくなってきた自分を感じた。うるせえと思うくらいにまで言葉を捉えず、受け流せるようになった。

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